top of page
​慶大法 講習受講生専用ページ

New!! 明日の合格弁当をアップしました

​夏期、冬期、直前講習の受講生をサポートするためのページです。対面はもちろん、オンラインでも質問を受け付けます。授業の中で適宜回答したり、回答をフォーム欄に書き込みます。なお、答案へのコメントはAIチャット(ChatGPT)を活用してください。なお、自身のチャットの履歴を残すためには、アカウント(無料版で可)を取得する必要があります。

講習後の追加情報は以下に列挙するので、適宜ページにアクセスしてください。

【更新情報】

・授業で解説した非攻(墨子)の出題を掲載しました

青山学院大学総合文化政策学部2025年

非攻篇(上)

いま一人の男があって、他人の果園に侵入して桃や季を盗むならば、衆人はこれを聞いて非難し、上にあって政治をする者はこれを捕えて罰するであろう。その理由は何か。それは他人に損害を与えて、自分の利を計ろうとするからである。

他人の犬や雞・豚を盗む行為は、その不義の程度からいえば、果園に侵入して桃や季を盗むことより、一層甚だしいものがある。なぜかといえば、人に損害をかける程度が一層大きいからである。人に損害をかける程度が大きければ大きいほど、その不仁の程度もひどくなり、罪もいよいよ重くなる道理である。

さらに他人の檻や棚に侵入して馬や牛を盗むことは、その不義の程度からいえば、他人の犬や雞・豚を盗み取ることよりも一層甚だしいものがある。なぜかといえば、人に損害をかける程度が一層大きいからである。もし人に損害をかける程度が大きければ大きいほど、その不の程度もひどくなり、罪もいよいよ重くなる道理である。

さらに、罪もない人間を殺して、その衣類や剣などの武器を奪うことは、その不義の程度からいって、他人の檻や厩舎に侵入して牛馬を盗むことよりも、一層甚しいものがある。なぜかといえば、人に損害をかける程度が一層大きいからである。もし人に損害をかける程度が大きければ大きいほど、その不信の程度もひどくなり、罪もいよいよ重くなる道理である。

以上のような事実については、天下の君子はみなこれを非難することを知っており、これを不義であるという。ところが、いま他人の国を攻めるという大きな不義を働く者が現われると、これを非難することを知らないばかりか、かえってこれを誉めて正義であるという。これでは正義と不義との区別を知っていると言えるであろうか。

もし一人の人間を殺せば、これを不義といい、一つの死罪を狙したものとされる。

もし、この道理からいえば、十人を殺した者は十の不義を重ねたことになり、十の死罪を犯したことになる。また百人を殺した者は百の不義を重ねたことになり、百の死罪を犯したことになるわけである。このような事実については、天下の君子はみなこれを非難することを知っており、これを不義であるという。ところが、いま他人の国を攻めるという大きな不義を働く者が現われても、これを非難することを知らないばかりか、かえってこれを誉めて正義であるという。まことに不義の何たるかを知らぬと言わなければならない。

その故にこそ、他国を攻めることを賛美した言葉を書きつらね、これを後世に伝えているのであって、もしそれが不義であることを知っていれば、その不義の言葉を書きつらねて後世に伝える道理はないはずである。

いま、ここに人があって、少量の黒を見ればこれを黒といい。多量の黒を見てこれを白だといったとすれば、必ずこの人は白黒の区別のできぬ人間だとするであろう。少量の苦味をなめて苦いといい。多量の苦味をなめて甘いといえば、この人は甘苦の区別のつかぬ人間だとするであろう。

同様に、少しばかりの非を犯すと、これを非難することを知りながら、他国を攻めるという大きな非を狙した場合には、これを非難することを知らないばかりか、かえってこれを誉め、これを正義だというのは、正義と不義との区別を知るものと言えるであろうか。この故に、今の天下の君子の正義と不義との区別の仕方が、混乱していることがわかるのである。

 

非攻篇(中)

子墨子は次のように言われた。

いまの王公大人で国家の政治をしているものは、善を誉め悪をそしることの区別を明らかにし、賞罰を妥当ならしめ、法令の運用に過失がないことを願わないものはない。

そこで子墨子は次のように言われた。

昔の言葉にも「もし思案しても判らないときには、過去の例から考えて将来を推測すればよく、目に見える事実を本にして隠れた道理を求めればよい」といっている。

このような方法によって物事を考えるならば、すべてを明らかに知ることができよう。

しばらく軍隊の出動のことだけについて考えてみよう。冬の出動は寒さに妨げられ、夏の出動は暑さに妨げられるから、軍隊の出動は冬と夏とを避けなければならぬことになる。また春は民の耕作や植付けの仕事をだめにするし、秋は民の収穫をだめにすることになるから、春と秋も避けねばならぬことになる。もし一つの季節でもだめにしてしまえば、民の飢え凍えて死ぬものが無数にのぼるであろう。

さてまた軍隊の出動に必要なものを数えてみるに、(弓矢や旗さしもの、陣幕、甲冑や楯などを用意して出発するのであるが、しかもそれらのもので破壊され腐朽して返らないものは無数にのる。またその矛式剣や兵車など、列をなして出発するのであるが、砕け折れ廃物となって帰らないものも無数にのぼる。また牛馬の出発した時に肥え太っていたものが、痩せ細って帰ったり、あるいは死んで帰らないものも莫大にのぼる。あるいは道が遠いために糧食が杜絶して補給できず,民の死亡するものもまた莫大である。あるいはまた、住み家に安んずることができず、飲食の時に定めがなく、飢と飽とが不規則なので、道中で民の病んで死ぬ者も無数にある。かくて軍の兵員を失うことが大で、数えきれぬほどである。兵員を失い尽くし、その数が大に達すれば、鬼神もまたこれを祭る子孫を失うのであって、この数も莫大に達することになる。

国家が命令を発して軍隊を出動させると、民の生活を奪い妨げ、民の利益を滅ほし尽くすこと、このように甚だしいものがある。それにもかかわらず、何のためにこのようなことをするのであろうか。彼らは「われらは戦勝の名誉と、戦勝によって得る利とが欲しいために、戦争をするのだ」という。

これに対して、子墨子は次のように言われた。

戦勝がもたらすものに有用なものは一つもなく、戦勝によって得た利益を計算すると、その損失の大なるには及ばないことがわかる。いま三里四方の城,七里四方の外郭をもつ国を攻めるとしよう。もし鋭兵を用いることもなく、かつ味方の兵を殺すこともなくて、まるまる手に入れることができれば、これはよいということになるかも知れない。しかしながら、味方の兵を殺すことが、多い場合は万を数え、少ない場合でも千を数え、これによって始めて三里の城、七里の外郭の国に勝つことができるのが実情である。

いま万乗の大国についてみるに、その国内には千をもって数える城邑があり、いくらでも人口を収容することができる。また万をもって数える広大な土地があり、いくら開拓しても余りがある。してみれば、土地はあり余っているのに対して、土民の数が足りないというのが実情である。いま土民を尽く戦死させ、上下の人々の心を苦しませて、他国の土地を得ようとして争うのは、不足しているものを棄てて、あり余っているものを重んじ求めることではないか。このような政治のやりかたは、決して国家の急務に忠実であるとは言えない。

これに対して攻戦,すなわち侵略戦争に口実をつけて合理化するものは、次のようにいう。「南方の荊・呉の二王や、北方の斉・晋の二君は、その祖先が始めて天下に封ぜられたときは、その土地はいまだ数百里を領有するに至らず、その人口も数十万に達しない程度であった。しかし、その後、攻戦をすることによって、土地の広さは数千里、人口は数百万人の多き数えるようになった。だから攻戦というものは行なわなければならないものである」と。

これに対して,子墨子は次のように言われた。

攻戦が四,五の国に利益をもたらすことはあるとしても、これによって攻戦が正しい道であるということはできない。それは譬えば医者が病人に薬を与えるのに似ている。いまここに医者があって祝薬を調合し、ひろく天下の病人を訪れてこの薬を与え、万人の患者がこれを飲んだとしよう。この場合、たとえ四、五人を治療して効果があったとしても、なお万人に通用する薬であるとは言えないであろう。だから、このような薬は,孝子はこれをその親に服用させないであろうし、忠臣はその君に服用させないであろう。

むかし天下の各地に諸侯が封ぜられた。その遠い昔のことに関しては自分の聞くところを述べ,その近世のことに関しては、自分の親しく見たところを述べよう。これらの諸国のうち、攻戦をしたために亡びたものは数えきれぬほどある。その実例をあげてみよう。

東方に莒という国があった。その国は甚だ小さくて、しかも大国の間に挟まれていた。それなのに大国に恭順して仕えることをしなかったので、大国の方でも莒国を愛し利するはずがなかった。このため東方からは越国がその土地を削りせばめ、西方からは斉国がその土地を併呑するという結果になった。この莒国が済越二国によって亡ほされた原因を考えてみると、やはり攻撃のためなのである。同様にして南方の陳・蔡の二国が呉・越の両国によって亡はされたのも、攻戦が原因である。また北方の且・不著何の国が、燕・代・胡・の諸国によってぼされたのも、やはり攻戦が原因である。

だから子墨子は次のように言われた。

もし王公大人が心から利益を欲して損失を憎み、安全を欲して危険を憎むならば、攻戦ということを強く否定しなければならない。

 

(1)矛、戟、戈、剣はそれぞれ当時使用されていた武器。

(2)国の規模としては小国を指す。

(3)ここでの「万乗の国」は、単に大国の意。

(4)祝薬については種々の説があるが定かではない。

(5)莒は現在の山東省にあった小国。

(6)陳も現在の河南省にあった国。

(7)且も不著何もかつての満州国にあった国。

 

出典:森三樹三郎『墨子」ちくま学芸文庫、2012年(なお、注については原著になかった(1)を加えたほか、原著にあった一部の注を改変・省略した。また、注記については適宜、原文を簡略化した。)

 

設問

あなたは上記の墨子の主張を支持しますか、それとも、それに反対ですか。いずれの場合も、想定される対立意見に反論しつつ、適切な論拠や具体例をあげながら、自らの見解を700字以上、800字以内の日本語で述べなさい。

※解答においては段落を設けること(通例の原稿用紙の書き方に準拠し、段落冒頭は1マス下げる)。

​記述(日本史・世界史)と論述(小論文)との違い

「記述」は事実や情報をありのままに書き記すこと、「論述」はそれに加えて筋道を立てて自分の意見や考えを述べる(論じる)こと、という違いがあります。「記述」が客観的な説明に重点を置くのに対し、「論述」は書き手の主観的な思考や論理的構成が求められ、より高度な文章表現を指します。 

 

記述(きじゅつ)

意味: 事実をありのまま、正確に文章に書き表すこと。

特徴: 客観性、正確性、網羅性が重視されます。何がどうなっているかを説明する(例:「事故の状況を記述する」「調査結果を記述する」)。

具体例:

「見たままを書き記す」

「現象をそのまま説明する(説明)」 

 

論述(ろんじゅつ)

意味: あるテーマについて、自分の意見や考えを筋道を立てて論理的に述べること(論じる)。

特徴: 主観的な解釈や根拠、論理的な展開が重要になります。「なぜそうなるのか」「どうすべきか」といった、書き手の思考が問われます。

具体例:

「〇〇について論ぜよ」という問題に答える

論文や小論文で、自分の主張を展開する

 

💡おまけ:記述と論述との違いを、A Iにたずねてみました。→チャット(Gemini)へのリンク

直前講習

2025年の出題は課題説明→断章(文章の断片の引用)→設問という流れでした。ただ、初年度ゆえに、同じ出題形式になるとは限りません。そこで冬期講習では断章ではなく三つの視点の出題にしました。直前講習の第1日は、短い課題文型の出題にしています。第2日は2025年型に戻します。本命とは言えない図表型や英文型も想定しておく必要があるので、2026年度FIT入試B方式を参考に以下の問題を作成しました。このように構えを広げることで、想定外の事態に柔軟な対応が可能になります。なお、見た目は変わっても、本質は同じであることにも留意しましょう。

例題:図表型と英語論文

<参考>上記の英語論文のベースとした文章(リベラルデモクラシーの衰退)

リベラルデモクラシーが直面する構造的危機:市民の不満と三つの要因

現代政治において、かつて盤石と見なされたリベラルデモクラシーは、世界的に権威主義的なポピュリズムの台頭という形で、その根本的な危機に直面しています。この衰退は、単なる政治指導者の交代ではなく、システムそのものに対する市民の信頼喪失と、社会構造の根本的な変化によって引き起こされています。

 

1. 有権者がリベラルデモクラシーに「愛想を尽かした」背景

多くの有権者がリベラルデモクラシーに愛想を尽かした最大の理由は、「約束された経済的な成果」がもはや実現しなくなったという深い失望感にあります。

戦後の長期にわたって、リベラルデモクラシーと市場経済は、社会のほぼ全ての人々に対して、生活水準の継続的な向上と、子供たちにより良い未来を保証してきました。しかし、現代社会では、特に先進国の中間層において、数十年にわたり実質賃金が停滞し、経済的な不平等が拡大しています。人々は、自分たちの未来だけでなく、子どもたちの世代の生活が自分たちよりも豊かになるという希望すら見失いつつあります。

この経済的な希望の喪失は、既存の政治エリートや、彼らが擁護するシステム(リベラルデモクラシー)に対する根本的な信頼の崩壊へと繋がりました。その結果、若年層を中心に民主主義そのものへの関心が薄れ、「軍事政権など、強力なリーダーシップによる権威主義的な代替案」であっても、現状の問題を解決できるなら受け入れるという傾向が強まっています。これは、市民が「個人の権利と法の支配」よりも、「強力な力による混乱の収拾」を優先し始めていることの表れであり、民主主義の根幹が揺らいでいることを示しています。

 

2. 衰退を加速させる「3つの大きな変化」

リベラルデモクラシーの危機を深化させているのは、以下の三つの複合的な構造的変化です。

生活水準の伸び悩みによる経済的不安: これは、単なる短期的な不況ではなく、グローバル化と自動化によって引き起こされた恒常的な所得格差の拡大と雇用の不安定化を指します。先進国の労働者層や中間層は、経済的な利益を享受できず、経済的な不安と怒りが増大しています。ポピュリストは、この不安を巧みに利用し、「エリートによる搾取」や「外国からの脅威」に責任を押し付け、既存システムへの憎悪を掻き立てます。

多民族社会の進展に対する文化的反発(反多文化主義): 移民の増加や社会の多様化が進む中で、伝統的なマジョリティ集団の一部から、自らの文化的なアイデンティティや帰属意識が脅かされているという危機感が生まれています。リベラリズムの価値観である「寛容性」や「多様性の尊重」が、ポピュリストによって「社会の分裂を招く要因」として攻撃されます。経済的不満と文化的な疎外感が結びつくことで、排他的なナショナリズムや反移民感情が強化され、政治的な亀裂が深まっています。

ソーシャルメディアの普及による政治的安定勢力の弱体化: インターネットとソーシャルメディアの急速な普及は、市民と政治との間にあった伝統的な「仲介者」の役割を弱めました。主要政党、既存メディア、知識人といった政治的な安定をもたらす機関の力が相対的に低下し、扇動的で極端なメッセージや誤情報が直接、大量に拡散されるようになりました。この「ディスインターミディエーション(中間層の排除)」により、ポピュリストは伝統的なフィルターを通さずに大衆に訴えかけ、既存の権威やシステムの信頼性を容易に失墜させることが可能になったのです。

 

これらの経済的、文化的、技術的な三つの要因が絡み合うことで、リベラルデモクラシーの核である「個人の自由(リベラリズム)」と「民意の反映(デモクラシー)」が対立し始め、その構造的な危機が深まっています。

​問題集:小論文2025の形式に似せて、トレードオフを含む問題を作成しました。

例題1:「自由」と「平等」

 

「自由」と「平等」は、政治思想において常に議論されるテーマです。これらは互いに補完し合う側面もありますが、一方で対立する場面も少なくありません。近代の政治哲学者たちは、この二つの価値がどのように調和し、どのようにトレードオフが生じるかについて議論を繰り広げてきました。

 

・「自由は、他者の自由を侵さない範囲で自己決定を行う権利であり、個人の選択の自由が最も重要である。」(ジョン・ロック『市民政府二論』)

・「平等とは、全ての人が平等に機会を得ることであり、特定の集団や個人に対する差別を排除することに重きを置く。」(ジョン・ロールズ『正義論』)

・「自由と平等は理論上、両立し得るが、実際には自由を重視しすぎると平等が損なわれ、逆に平等を強調しすぎると自由が制限される。」(アレクサンダー・ハミルトン『連邦主義者の議論』)

 

以上を踏まえ、「自由と平等はどのように調和させるべきか」について、自由と平等のバランスを取ることの重要性を論じる立場と、それぞれが対立することを主張する立場から、普遍的な理論や例を挙げて論じなさい。解答は800字以内で行いなさい。

 

 

例題2:「個人主義と共同体主義」のトレードオフ

 

個人主義と共同体主義は、現代の社会思想における重要な対立概念です。個人主義は個人の自由や自己決定権を重視し、共同体主義は社会的つながりや共同体の利益を優先します。これらは理論上、対立する場合が多いですが、調和させることも可能だと考える者もいます。

 

・「個人の自由は、他者との関係を超越し、各人が独自に自己実現を追求することこそが最も重要である。」(ジョン・スチュアート・ミル『自由論』)

・「共同体における義務や責任は、個人の自由を規定し、個人の利益よりも社会全体の利益を優先すべきである。」(アマルティア・セン『ケイパビリティの発展』)

・「個人主義が強すぎると、社会の連帯感が薄れ、逆に共同体主義が強すぎると、個人の自由が制限される。」(ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』)

 

以上を踏まえ、「個人主義と共同体主義はどのように調和させるべきか」について、個人主義の重要性を主張する立場と、共同体主義の重要性を主張する立場から、普遍的な理論や事例を挙げて論じなさい。解答は800字以内で行いなさい。

 

 

例題3:「民主主義と効率性」のトレードオフ

 

民主主義と効率性は、政策決定においてしばしばトレードオフの関係にあります。民主主義は市民の意見を反映させるプロセスを重視し、効率性は迅速で効果的な決定を求めます。どちらを優先するかは時に大きな課題となります。

 

・「民主主義は、市民一人一人が意思決定に参加することで、正当性を持つ政策を生み出す。」(アレクシ・ド・トクヴィル『アメリカの民主主義』)

・「効率性は、最も少ないコストで最大の成果を上げることを目指すが、その過程で市民の声が無視されることが多い。」(フリードリヒ・ハイエク『自由の条件』)

・「民主主義が重視されすぎると、意思決定が遅れ、効率性が損なわれることがあるが、効率性が重視されすぎると、少数意見が排除される危険性がある。」(ジョン・ロールズ『正義論』)

 

以上を踏まえ、「民主主義と効率性はどのように調和させるべきか」について、民主主義の重要性を主張する立場と、効率性の重要性を主張する立場から、普遍的な理論や事例を挙げて論じなさい。解答は800字以内で行いなさい。

例題4:「環境保護と経済成長」のトレードオフ

 

環境保護と経済成長は、現代の社会的課題としてしばしば対立するものとされています。経済成長は市場経済の発展を意味し、しばしば環境への負荷を増大させますが、環境保護はその負荷を軽減することを求めます。

 

・「経済成長は国の発展に不可欠であり、豊かな国がより多くの資源を環境保護に投資することができる。」(ポール・サミュエルソン『経済学』)

・「環境の保護は、将来世代への責任として最優先されるべきであり、無限の経済成長を追求することは持続可能ではない。」(レイチェル・カーソン『沈黙の春』)

・「環境保護を強調しすぎると、短期的な経済成長が制約され、逆に経済成長を重視しすぎると、長期的な環境問題を悪化させる。」(ジョセフ・シュンペーター『経済発展の理論』)

 

以上を踏まえ、「環境保護と経済成長はどのように調和させるべきか」について、環境保護の重要性を主張する立場と、経済成長の重要性を主張する立場から、普遍的な理論や事例を挙げて論じなさい。解答は800字以内で行いなさい。

​​

​解答サンプル

 

 

例題1:「自由」と「平等」

【標準レベル】

自由と平等は、近代社会を支える二大原則であるが、これらはしばしば対立する。自由を優先すれば競争による格差が生じ、平等を徹底すれば個人の活動が制限されるからである。本稿では、この二つの価値をどのように調和させるべきか論じたい。

まず、自由を重視する立場からは、ロックが説いたように、他者の権利を侵さない限りでの自己決定権こそが、人間の尊厳と社会の活力を生む源泉である。個人の創意工夫や努力が報われる社会では、自由な経済活動が促進される。一方、平等を重視する立場からは、ロールズが指摘するように、単なる形式的な自由だけでなく、全ての人が公正な機会を与えられることが重要である。生まれや環境による不平等を放置することは、社会的な正義に反する。

ハミルトンが論じた通り、両者は理論上両立し得るが、現実にはトレードオフが生じる。例えば、高所得者への重税は平等を促進するが、個人の財産権(自由)を制限する。この矛盾を調和させる鍵は「機会の平等」にある。結果の平等を強制するのではなく、教育や医療などの基礎的な条件を社会が保障し、その土台の上で各人が自由に行動できる環境を整えるべきである。

結論として、自由と平等は一方が他方を飲み込むものであってはならない。不当な差別を排除し、誰もがスタートラインに立てる「公正な平等」を担保した上で、個人の自由な選択を認めるという動的なバランスを維持し続けることこそが、民主社会の目指すべき姿である。

 

【模範解答レベル】

「自由」と「平等」は、近代政治哲学における「不即不離」の緊張関係にある。ロックが提唱した「自己決定権としての自由」と、ロールズが構想した「正義としての平等」は、一見して対立を孕む。自由の徹底は必然的に帰結としての不平等を招き、平等の強要は個人の自由な卓越性を抑圧するからである。

自由を重視する立場は、個人の自律性を社会の最上位価値に置く。市場経済における競争は自由の帰結であり、資源の最適配分を促す。対して平等を重視する立場は、構造的な格差が個人の実質的な自由を奪うことを危惧する。ロールズの「格差原理」が示す通り、最も不遇な人々の状況を改善しない限り、社会全体の正義は達成されない。ハミルトンが示唆したように、この二者の対立は政治の実践における永遠の課題である。

この両者を調和させる論理として、私は「実質的な自由(エージェンシー)」の確保を提案する。単に法的に自由であるだけでなく、その自由を行使するための能力や資源が平等に配分されている状態を目指すべきである。具体的には、セーフティネットの構築と教育の無償化によって「再挑戦が可能な自由」を担保することだ。これにより、自由による活力を維持しつつ、平等の欠如による社会の分断を防ぐことが可能となる。

総じて、自由と平等は静止的な均衡点にあるのではなく、社会情勢に応じて常に調整されるべきプロセスである。強者の自由が弱者の生存を脅かさず、かつ平等の追求が個人の創造性を奪わない「節度ある調和」こそが、成熟した市民社会の基盤となる。

 

例題2:「個人主義と共同体主義」

【標準レベル】

現代社会において、個人の権利を尊重する個人主義と、集団の和や責任を重視する共同体主義の対立は深刻である。本稿では、この二つの思想の重要性を踏まえつつ、その調和の在り方について論じる。

個人主義の立場では、ミルの『自由論』にあるように、他者に危害を加えない限り、個人の自己実現は最大限尊重されるべきである。これは創造的な社会を築くために不可欠な考え方である。一方、共同体主義の立場では、センが示唆するように、人間は孤立して存在するのではなく、共同体の中での役割や義務を通じて自己を形成する。過度な個人主義は社会の連帯を壊し、孤独や無縁社会を招く恐れがある。

ノージックが指摘したように、どちらかが強すぎれば、もう一方が損なわれるというトレードオフが存在する。例えば、地域の伝統行事への強制参加は共同体を守るが、個人の自由を奪う。しかし、これらは必ずしも対立するだけではない。健全な共同体は、自立した個人の集合体であるべきであり、また個人が真に自由であるためには、安心できる帰属先(共同体)が必要である。

調和のためには、「緩やかな連帯」を基本とすべきである。国家や伝統的な地域社会という強固な枠組みだけでなく、共通の目的を持つNPOや趣味の集まりなど、個人が自発的に選択できる多層的な共同体を構築することが重要である。個人の選択の自由を認めつつ、他者への貢献を通じて自己の存在意義を見出すような、開かれた共同体主義こそが、現代における正義の形である。

 

【模範解答レベル】

個人主義と共同体主義の相克は、現代リベラリズムにおける核心的な議論である。ミルの説く「自己決定の尊重」は近代民主主義の金字塔であるが、一方でノージックが懸念したような過度な個人至上主義は、社会の原子化と連帯の崩壊を招きかねない。

個人主義を擁護する立場は、個人の内面的な自由こそが真理の探究と社会進歩の原動力であると主張する。対照的に、センの「ケイパビリティ」の視点を取り入れた共同体主義的なアプローチは、個人の能力開花には社会的な文脈や他者との関係性が不可欠であることを強調する。人間は「負荷なき自己」ではなく、常に特定の共同体や歴史に「埋め込まれた自己」として存在するからである。

両者の調和を図るためには、個人を共同体の犠牲にするのではなく、また共同体を単なる個人の利益追求の道具にするのでもない「中庸の理」が求められる。具体的には、公共圏における「対話」の重視である。個々人が自身の価値観を保持しつつも、公共の利益(コモン・グッド)について議論に参加するプロセスを通じて、個人の自由と共同体への義務は統合される。

結論として、個人主義と共同体主義は排他的な関係ではない。個人の自律を支える基盤として共同体を再定義し、共同体を更新する主体として個人を位置づける必要がある。個人の「私的な自由」と、市民としての「公的な責任」が互いを補完し合う関係を築くことこそ、現代社会が直面するアノミーを克服する道である。

 

例題3:「民主主義と効率性」

【標準レベル】

民主主義は合意形成のプロセスを重視するが、それは往々にして決定の遅れを招く。対して効率性は迅速な結果を求めるが、独断に陥るリスクがある。この両者をいかに調和させるかは、現代政治の大きな課題である。

民主主義の重要性を説く立場からは、トクヴィルが論じたように、市民の参画こそが政策の正当性を担保する。多様な意見を反映させる過程で、少数の切り捨てを防ぎ、納得感のある社会を築くことができる。一方、効率性を重視する立場からは、ハイエクが指摘するように、刻々と変化する経済や社会情勢に対して、迅速な意思決定を行わなければ、国益を損なう可能性がある。災害対応や経済危機においては、手続きの遅滞が致命傷になりかねない。

ロールズが述べたように、民主主義が過ぎれば停滞を招き、効率が過ぎれば少数意見が排除されるというトレードオフが生じる。この調和のためには、「決定のプロセスの多層化」と「事後チェック機能」の強化が必要である。全ての事項を全員一致で決めるのではなく、日常的な行政執行においては一定の裁量を認めつつ、重要な基本方針については徹底的な議論を行うという使い分けが不可欠である。

結論として、効率性のために民主主義を犠牲にしてはならないが、機能不全に陥った民主主義もまた市民を不幸にする。デジタル技術を活用した迅速な民意集約や、専門知と民意の役割分担を明確にすることで、合意形成の質を高めつつ速度を上げる「スマートな民主主義」を目指すべきである。

 

【模範解答レベル】

政治における「正当性の確保(民主主義)」と「機能の充足(効率性)」は、しばしば零和(ゼロサム)の関係として捉えられる。トクヴィルが看破したように、民主主義の本質は結論以上にその「過程」にあるが、ハイエクが懸念した通り、複雑化した現代社会では、手続きの肥大化が国家の存立を危うくするパラドックスが生じている。

民主主義を優先する論理は、決定の内容が如何に合理的であっても、当事者の承諾を欠けばそれは「温和な専制」に過ぎないと主張する。対して効率性を優先する論理は、グローバル競争や危機の常態化において、遅滞した正義は正義ではないとする。ロールズが示したように、効率性と正義は制度が備えるべき二大徳目であり、その優先順位は状況に応じて厳密に検討されねばならない。

両者を調和させるパラダイムとして、私は「熟議の質的向上」と「権限委譲の明確化」の併用を提唱する。熟議民主主義の理念に基づき、デジタルプラットフォーム等を通じて情報の非対称性を解消し、合意形成に要するコストを削減する。同時に、技術的な細目については専門家組織への委任を認めつつ、その結果を議会が厳格に事後評価する体制を構築する。

総じて、民主主義と効率性の調和とは、単なる妥協点を探ることではない。それは「なぜその決定が必要か」という目的共有の時間を惜しまないことで、かえって実施段階の効率を最大化させるという、質的な統合を目指す行為である。

 

例題4:「環境保護と経済成長」

 

【標準レベル】

環境保護と経済成長は、長く対立関係にあると考えられてきた。産業の発展は豊かな生活をもたらすが、一方で地球温暖化や生物多様性の喪失を招くからである。しかし、現代においては、この二つを調和させることが持続可能な社会のために不可欠である。

経済成長を重視する立場からは、サミュエルソンが述べるように、経済的な豊かさがあってこそ、高度な環境技術の開発やインフラ整備への投資が可能になる。貧困が環境破壊を招く側面もあり、成長は解決の手段となり得る。一方、環境保護の立場からは、カーソンが警告したように、自然環境の破壊は不可逆的であり、経済利益のために生態系を犠牲にすることは将来世代に対する無責任である。

シュンペーターが示したように、短期的には環境規制が経済を抑制するように見えるが、長期的には環境への配慮を欠く成長は破綻する。このトレードオフを乗り越える鍵は「グリーン・イノベーション」にある。これまでの「環境か経済か」という二者択一から脱却し、環境保護を新たな成長のエンジンへと転換させる必要がある。

結論として、環境保護と経済成長の調和は、資源効率を極限まで高める循環型経済(サーキュラー・エコノミー)の構築によって達成されるべきである。経済活動を自然の限界内に収めつつ、技術革新によって質の高い成長を目指す。こうした「持続可能な発展」こそが、現世代と将来世代の両方に対する責任を果たす唯一の道である。

 

【模範解答レベル】

環境保護と経済成長の相克は、近代の「拡大主義」が直面した最大の壁である。カーソンが『沈黙の春』で告発した生態系の危機は、サミュエルソン的な「成長による解決」の限界を露呈させた。地球の有限性と、資本主義の無限増殖性の矛盾をいかに止揚するかが問われている。

経済成長を擁護する論理は、成長停止が招く社会的混乱やイノベーションの停滞を危惧する。確かに、環境対策の原資は経済的余剰から生まれる。一方で、環境保護を至上命題とする論理は、ティッピング・ポイントを超えた後の経済成長は無価値であると喝破する。シュンペーターが論じた「創造的破壊」の概念を借りれば、今まさに、環境負荷の高い旧来の産業構造を破壊し、環境価値を内在化した新たな経済モデルを創造すべき転換点にある。

両者の調和を具現化する概念が「デカップリング(分断)」である。経済成長と環境負荷の増大を切り離し、GDPが増加しても資源消費や排出量が減少する仕組みを構築することだ。これには、炭素税等の外部不経済を内部化する市場メカニズムの活用と、再生可能エネルギーや資源循環技術への抜本的な投資が不可欠である。

結局のところ、経済成長は目的ではなく、人間の幸福を実現するための手段に過ぎない。環境という生存基盤を維持することそのものを価値として組み込んだ経済指標(グリーンGDP等)へと認識を刷新し、地球の許容範囲内での「質的な進化」を追求することこそが、真の調和の姿である。

​冬期講習​

​​

学習サポート:AIのチャットを共有化します。自分の解答・答案を書き込めばコメントしてくれますよ😊なお、チャットは創作的意図や創作的工夫を含むため私に著作権があります。受講生以外の第三者への転送や複製は禁止します🈲

 

​​2025年小論文AIによる答案レビュー 駿台の解答例

​​

テキスト問題集サンプル答案

(1)表現の自由と公共の秩序 AIによるレビュー

<壁打ち解答案>
①断章の立場整理

 ルソー:自由は「他者に害を与えない範囲」で成立=自由は無制限ではなく相互性が前提

 キケロ:公共の秩序・共同体の維持が法の核心=秩序は自由の基盤となる価値

 ミル:害悪原則に基づき規制は慎重に=規制は恣意拡大・少数意見の抑圧へ転化しうる

②自由と秩序の衝突場面

 ・ヘイトスピーチ、デマ拡散、プライバシー侵害

 ・集会・デモの騒乱化、炎上による社会不安

  → 自由行使が他者権利や公共利益と競合する場面

③規制が妥当とされる原則

 ・必要性(他の手段では防げないか)

 ・比例性(制限は必要最小限か)

 ・明確性(何が禁止かが曖昧でないこと)

 ・中立性・透明性・司法審査可能性

④規制が正義を守る例/損なう例

 守る例:差別的言説抑制 → 弱者保護・実質的自由の確保

 損なう例:反体制批判の抑圧 → 権力監視機能の喪失・思想の多様性縮小

⑤自分の立場と論拠の方向性

 ・原則「自由尊重+限定的な規制」

 ・理由:自由な討議こそ正義形成の前提/ただし他者権利侵害防止には最小限の規制が必要

  → 条件付きで規制は正当化されるが、濫用防止の制度設計が不可欠

<解答サンプル>

表現の自由をめぐる法的規制は、正義と緊張関係に立つ一方で、条件次第では正義を支える役割も果たしうる。問題は、規制の有無ではなく、それがいかなる原理に基づいて正当化されるかにある。

規制を支持する立場は、表現が他者の権利や公共の秩序を侵害しうる点に着目する。ルソーが述べるように、自由は無制限な行為の許可ではなく、他者に害を与えない範囲で成立するものである。虚偽情報や差別的言説が放置されれば、人格権や社会的平等が損なわれ、自由な討議の前提そのものが破壊される。このような事態を防ぐため、一定の規制によって公共の秩序を守ることは、キケロのいう「共同体の第一の法」として理解されうる。正義を各人の権利の保障と捉えるならば、規制は強者の表現が弱者を沈黙させることを防ぎ、実質的な自由を確保するために必要な手段となる。

しかし、規制を批判する立場も強い論拠を有する。ミルが指摘したように、害悪防止を名目とする干渉は、しばしば権力の恣意的行使へと転化する。何が「害」に当たるかを国家が判断すること自体が、少数意見や異端的見解を排除する契機となりうる。規制が拡張されれば、表現の萎縮効果が生じ、多様な意見の流通が妨げられる。その結果、社会が誤りを正す機会や、正義を批判的に問い直す可能性が失われる。ここでは、正義は自由な討議過程の保障として理解され、規制はその基盤を掘り崩すものと位置づけられる。

以上を踏まえると、私は、表現の自由に対する法的規制は原則として抑制的であるべきだが、厳格な条件の下では正義と両立しうると考える。具体的には、規制の目的が他者の権利保護に限定され、必要性と比例性が明確に示され、かつ第三者的審査によって統制される場合に限り、規制は正当化される。正義とは、自由か秩序かの二者択一ではなく、自由が相互に侵食しない制度的条件を整えることであり、その観点からこそ、限定された規制は正義に資するといえる。

 

(2)非常事態と立憲主義

<壁打ち解答案>

①断章の立場整理

 シュミット:非常時には例外を決定する主権者が現れる=権力が法の上位に立つ

 ロック:政府の目的は生命・自由・財産の保護=法は権利を保障するための手段

 アーレント:危機の中で権利は最も脆くなる=権利は保障の制度があって初めて実在する

②権利制限が立憲主義と矛盾すると考えられる理由

 ・立憲主義は「権力の制限」が前提

 ・非常時対応が恣意に流れると法の拘束が弱まり、例外が常態化する危険

 ・手続停止=権利保障が空洞化し、権力集中に至る可能性

③権利制限が必要と考えられる理由

 ・危機時には迅速な対応が求められる

 ・安全確保のため一時的な自由制限が不可避

 ・無制限の権利行使は逆に他者の権利を侵害する可能性

④両立の条件(矛盾と両立を橋渡しする論点)

 ・制限の目的が権利保障・安全確保のために限定されている

 ・必要性・合理性・比例性が明確

 ・期間・範囲が限定され、例外の恒常化を防ぐ

⑤緊張調停のための制度的工夫

 ・非常事態条項の事前規定と手続的統制

 ・議会・司法による監視と事後審査

 ・情報公開・説明責任・期間更新に議会同意を要求

 ・「例外を例外として」扱う制度設計(可逆性・再検証)

 

<解答サンプル>

非常事態における権利制限は、立憲主義と本質的に矛盾するのか。この問いは、非常時において権力・法・権利をいかに理解するかという公共哲学上の根本問題を含んでいる。

まず、両者は矛盾するとする立場がある。この見方は、立憲主義を権力抑制の原理として捉える。カール・シュミットが「主権者は例外において自らを示す」と述べたように、非常事態では、誰が例外を宣言し、どこまで権限を拡張できるのかが問題となる。非常時の迅速な対応を理由に、通常の手続や権利保障が停止されれば、権力は法の外部へと滑り出しかねない。例外が常態化すれば、権利制限は一時的措置ではなく統治の原理へと変質し、立憲主義の核心である権力の法的拘束は空洞化する。この点で、非常事態における権利制限は立憲主義と本質的に矛盾すると考えられる。

これに対し、矛盾しないとする立場も存在する。この立場は、立憲主義を単に権利の不変性としてではなく、権力行使を法の枠内にとどめる原理として理解する。ロックが示したように、政府の目的は人々の生命・自由・財産を守ることであり、非常事態においてもその目的自体は変わらない。むしろ、生命や安全が深刻に脅かされる状況では、一定の権利制限が他の権利を守るために不可避となる場合がある。重要なのは、非常措置が恣意ではなく、あらかじめ法によって構想されているかどうかである。この意味で、法に基づく非常事態対応は立憲主義と必ずしも矛盾しない。

以上を踏まえると、両者の緊張関係を解消する条件は、非常事態を「法の空白」としない点にある。アーレントが指摘するように、権利は危機の中でこそ最も脆弱であると同時に、最も必要とされる。したがって、権利制限の目的を生命・安全の保護に限定し、必要性と比例性を厳格に審査すること、措置に時間的限界を設けること、さらに議会や司法による事後的・継続的統制を確保することが不可欠である。非常事態においても権力を可視化し制限する制度が維持される限り、権利制限は立憲主義の否定ではなく、その試金石となりうるのである。

(3)伝統と進歩

<壁打ち解答案>

①断章の立場整理

 バーク:伝統=社会の知恵の蓄積、改革は漸進的にすべき

 ヘーゲル:伝統=止まった過去ではなく、歴史精神の発展段階として継承的克服の対象

 マルクス:伝統=旧体制のイデオロギー、進歩は革命的断絶による社会変革

②伝統尊重の意義/過剰な伝統の弊害

 意義:共同体の連続性・帰属意識・規範の安定・社会的経験の蓄積

 弊害:変化への抵抗・不合理の固定化・少数者排除・閉鎖的秩序の温存

③進歩追求の価値/過度な進歩の弊害

 価値:不正義是正・制度刷新・科学技術の発展・自由と平等の拡大

 弊害:急進的破壊・文化断絶・アイデンティティ喪失・社会的混乱

④歴史例(対立/相補)

 衝突例:フランス革命(伝統的王権の破壊と革命思想の全面衝突)

 調和例:日本の明治維新(和魂洋才として伝統と近代化を折衷し制度更新)

⑤バランスの原則・判断基準

 ・伝統の機能を検証し、正義に反する部分は修正する

 ・進歩は段階的に導入し、社会的基盤を保持する
 ・熟議・透明性・少数者保護・比例性・可逆性を重

<解答サンプル>

公共哲学において、「伝統の尊重」と「進歩の追求」はしばしば対立する価値として捉えられてきた。しかし両者は必ずしも排他的ではなく、公共の意思決定においては、その緊張関係をいかに調整するかが問われている。

両者を対立的に捉える見方では、伝統は過去の価値観や制度を固定化し、社会の変化や個人の自由を妨げるものと理解される。一方、進歩は理性や改革によって不合理を克服し、より公正な社会を実現する原動力とされる。この立場では、伝統の尊重は「死者の支配」を現在に持ち込む行為であり、進歩の追求こそが正義にかなうと考えられる。逆に、伝統を重視する側からは、急進的な改革は社会の連続性を断ち、共同体の基盤や信頼を破壊する危険をはらむと批判される。ここでは、進歩は秩序を溶解させる不安定要因として警戒される。

しかし、伝統と進歩を相補的に捉える見方も存在する。この立場では、伝統は単なる過去の遺物ではなく、社会が長い時間をかけて蓄積してきた経験や知恵の集積と理解される。進歩はそれを全面的に否定することではなく、伝統を批判的に継承しつつ、新たな状況に適合させていく過程である。伝統がなければ進歩は拠り所を失い、進歩がなければ伝統は硬直化する。両者は相互に補完し合う関係にあるといえる。

以上を踏まえると、公共の意思決定において重要なのは、伝統と進歩のいずれかを絶対化しないことである。具体的には、伝統が果たしてきた機能や価値を検証し、それが現在の社会的条件の下でも正義や公共善に資するかを問い直す姿勢が求められる。その上で、不正義や排除を温存する伝統については、進歩の名の下に修正や改革を行う必要がある。公共哲学におけるバランスとは、過去を無批判に保存することでも、過去を一挙に断ち切ることでもなく、伝統を資源として用いながら、段階的かつ熟議を通じて進歩を実現していくことである。

​<参考問題>「問う能力」の再開発(2006年)

若い世代の「問う能力」の欠落を指摘し、その再開発の必要性を説くことが出題・課題文の趣旨です。 出題も20年前で、課題文も50 年も前のものですが、筆者の指摘は現代にも通じるものがあります。ある課題について問題を発見し、 自学自習を通じて分析していくときの基本になるのが「問う能力」です。2025 年に変更された課題小論文「小論文」は、受験生が日常のさまざまな学びを通じて育んできた「問う能力」を試す出題のように思えます。

【設問】 以下の文章を読んで、1著者の論旨を要約して論評し、その上で、著者の見解を参考にしつつ、2あなた 自身が人に話を聞きにいくときに大切だと考える点を、作法やマナーと呼ばれるものも含めて、二点以上 挙げてその理由を説明しなさい。挙げる点は課題文に言及されているものに限らない。また、3あなたが 何か学術的な聞き取り調査に行くと想定して、どういう調査で、どういう人に、どんな質問を用意してい くかを自由に書きなさい。なお、解答の記述にあたっては、上記三点の解答箇所がわかるように、文章の 最初に一、二、三と数字を付すこと。

 

ひとの話をきく、というのはいいことだ。どんな人と話をしても、かならず勉強になる。人生や社会につ いて視野をひろげてゆくためにも、たくさんの人の話をきくことがのぞましい。 しかし、ひとの話をきくというのは、レコードやテープを機械にかけてその音声をきく、ということとは ちがうのである。レコートやテーブは、スイッチをいれさえすれば、ひとりでにスピーカーから音が流れ てくる。しかし、生ま身の人間の話は、スイッチをいれたからきこえてくる、というわけのものではない。 たとえば、ここにバングラディッシュの⺠話について知りたい、という人がいるとしよう。そして、さい わい、この問題について造詣の深い学者を見つけることができ、その学者をたずねて対面する機会にめぐ まれた、と仮定しよう。そんなとき、ただ黙ってすわっているだけでその学者がぺらぺらとしゃべってく れるものであろうか。黙ってすわっているだけでは、相手は、ただけげんそうな顔つきで見つめ、しばら く時が経つと、なんとなく不気味で不愉快な気分になってしまうにちがいない。 どうしたらよいのか。常識でわかることだが、ひとを訪ねたら、こちらから口をひらき問いを発しなけれ ばならぬ。問いがあって、はじめて答えが得られる。つまり、話を聞くということは問うことなのである。 問いかけがなければ、なにごとかさっぱりわからない。そして、問いと答えの連続によって会話というも のが進行する。ひとをたずねて取材する能力は、べつなことばでいえば問う能力ということにほかならな い。 それだけではない。問いかたのじょうずへたが取材の優劣をきめる。かつて、梅棹忠夫氏は問いと答えと いうものは、鐘と撞木のようなものだ、といわれたことがある。鐘の鳴りようは、どんなふうに撞木がそ れを打つかによってきまる。腹のさだまらない、へたな人がよろよろと撞本を鐘にあてても、鐘は弱くコ ロンと鳴るだけであろう。しかししっかりした人物が、力をこめて打つべきところにぴったりと撞木を打 ちつけるなら、鐘はこころよいひびきを朗々と鳴りわたらせるにちがいない。たしかに、そのたとえは正 しい。取材する人の問いがへたなり、取材されるがわからかえってくる答えはなんとなくぼんやりしたも のになるだろう。そしてそれと対照的に、問いがきちんと整理され、的を射たものであるなら、すばらし い答えがかえってくるであろう。取材されるがわが、いかに大学者、もの知り、わけ知りであろうとも、 取材するがわの問う能力が貧困であるなら、せっかく面談しても、たいした収穫はないものなのだ。ひと の話をじょうずにきくためには、よき問いを発する能力が必須なのだ。ひとに会いにゆけばしぜんに話が

4

きける−そんなかんがえかたをもつ人がいるとすれば、それは大きなまちがいなのである。 そして、いまの日本人、とりわけ若い学生たちに欠落している能力は、問う能力だ、とわたしは思う。日 本の大学の教室などというのはその貧困が典型的にあらわれている場所であって、学生たちは、先生にむ かっておよそ問うということをしない。たまに問う学生がいても、じょうずに問う人間はすくない。 (中略) ほかのところで書いたことだが、外国の大学で教えていると、授業というものはことごとく問答の連鎖で あることに気がつく。さいしょ一〇分間ほど話をすると、すぐに五、六人の学生から手があがる。その問 いに答えていると、その答えに反応してつぎの質問が投げかけられる。そういう対話の流れが授業という ものなのだ。知的訓練というものは、じょうずな問答の訓練のことなのである。それは、生ま身の人間ど うしが対面したときにはじめて可能なことだ。教室の意味とは、そこで問答が展開されるというところに ある。問答のない教室には、なんの意味もない。 多くの人たちは、マンモス教室、マス・プロ教育といったことばでこんにちの日本の大学を批判する。ビ デオ・テープを使ったりして教育の機械化をすることについてもたいていの人が反対する。そしてその理 由というのは、申し合わせたように「人問的接触の不在」ということだ。それはそのとおりだと思う。し かし、その「人間的接触」の場であるはずの教室で、まったく問答がないという事実をみると、たいへん に逆説的なことだが、マンモス教室だっていいではないか、といいたくなってしまう。 問う能力、というのは、この本のはじめのほうに書いたように、問題を発見することであり、あるいは問 題意識をもつということである。問いがない、ということは、こんにちの若ものたちがおしなべて問題を 見つけていないということであり、見つけようともしていない、ということでもある。こんにちの大学生 をわたしは知的難⺠ということばで表現したが、かんがえればかんがえるほど、日本の教育の事態は深刻 なのである。 だからこそ、わたしは、問う能力の再開発をこんにちの教育の最大の課題だとかんがえる。この能力の開 発なしに、情報を使うことは不可能だし、とりわけ、ひとにじょうずに話をきくことなどできた相談では ないのだ。落語には「こんにゃく問答」というのがあって、まことにトンチンカンな「問答」が笑いをさ そうが、たとえば禅の世界などでは、問答が精神を深める方法であったし、ブラトン以来の弁証法という のも、人間的レベルでいうなら、じつは「問答」ということなのであった。取材の過程は、問答の過程と 同義であり、その問答の能力は、ひとの話をきくという場面でもっともはっきりとためされるものなので ある。

(中略) いささか、へんな言い方かもしれぬが、とりわけ学生たちはこのへんでひとつの意識革命を必要としてい る、とわたしは思う。つまり、学生は先生を使うことをもっとかんがえるべきなのだ。先生たちはもの知 りである。本もたくさん読んでいるし、経験もゆたかだ。要するに、先生たちは情報のタンクのような存 在なのである。先生が教室で話すことは、そのタンクのなかに貯蔵されている情報のごく一部であるにす ぎない。学生である、ということはそのタンクのなかから、自由に、そして貪欲に情報をひき出すことが ゆるされている、ということだ。そして教室というのは、そんなふうに情報をひき出すための場所なので ある。大学というところは知識の切り売りの場所でしかない、といったことをいう学生がいる。しかし、 切り売りが気にいらないなら、もっとべつな買い方をしたらよろしかろう。そのためには、日本の教室の 伝統を破って、堂々と臆せずに手をあげ、知りたいことを問うべきだ。たいていの先生は、それを歓迎す るはずなのである。スーパー・マーケットのごとき切り売り現象が発生したのには、売り手がわの便宜も あろうが、買い手がわもそれを望んできたからである。学生たちが、よき問いを発することができるよう

5

 

になれば、教室の風景はがらりとかわってゆくだろうし、同時に、そこでこそはじめて「人間的接触」と いうものの意味がはっきりしてゆくにちがいないのである。 べつな言い方をすれば、大学にかぎらず、およそ学問というものは、学生・生徒にとっての取材施設なの である。じぶんの学びたいことを自由にひき出すことのできる場なのである。図書館を使い、先生たちの もっている情報蓄積を使う、学校はそのためにある。先生のいうことを、一字一句もらさずにノートにと り、そのとおり暗記するというのは、結局は情報に使われている、といことだ。はじめにのべたように、 われわれはいま、情報に使われる立場から情報を使う立場に、あるいは情報を受け身でうけとめ、それに よって操作される立場から、主体的に情報をえらび、それを自律的な自我形成に役立てる立場へ、という 転換をめざしている。とするなら、その第一歩は、問うこと、しかもじょうずに問うことでなければなる まい。 知的探求は、くどいようだが、問うことが出発点なのだ。問うことがあればこそ、図書館にもゆくし本も 買う。索引もひく。そして、ひとの話をきくことのたのしみも、問いあればこその経験なのである。問い がはっきりしていないで、あるいはなにを問うべきかもわからないままにひとに会いに行っても、なんに もならない。ひとの話をきくまえに、はっきりさせておかなければならないのは、じぶんにとってなにが 問題であるのか、についての自己確認である。その自己確認から問うべきこともしっかりしたかたちをと るようになるだろうし、そのしっかりした問いが投げかけられることによって、取材の対象である鐘は 朗々たる音色でこたえてくれるにちがいないのである。人間相手の取材とは、問答のことだ。問答のない 取材というのは、ありえない。学問の成果がどんなものでありうるかは、ひとえに問答の能力によるので ある。 (出典)加藤秀俊「取材学」(中央公論新社、1975 年)

​夏期講習

学習サポート:

AIのチャットを共有化します。自分の解答・答案を書き込めばコメントしてくれますよ😊なお、チャットは創作的意図や創作的工夫を含むため私に著作権があります。受講生以外の第三者への転送や複製は禁止します🈲

 

​​小テスト:法と正義 駿台の解答例

テスト1:「反移民」の意識や行動

テスト2:陰謀論が現代社会に及ぼす影響

テスト3:1票の価値の平等と地域の代表性の確保

以下の出題は、いずれも慶大法FITのB方式を参考に作成しました。ネタ元の詳細はリンク先をご覧ください。

参考問題(1):外国人との共生

参考問題(2):教育の地域格差

参考問題(3):エイジズム​​​​

🎁おまけ

note 小論文問題集みたいなコラム
note ジョブズから高校生へのメッセージ

note 宮崎台さくら坂商店街の近況

参考問題:新潟大学経済科学部2025年出題


​※増大してきた非正規労働者層に政治が応えてこなかった...そのストレスが選挙結果の一因かも​🤷‍♂️

参考問題:上向きの侮蔑ー「上級国民」批判

難関大学の難解な小論文、でも今の政治状況の説明として参考になると思います📝
 名古屋大学法学部2025年前期「小論文」(PDF

 転送・複製を禁じます🈲

以下に解答サンプルを掲載します。これを読むだけでも学びになります💪

<解答例>

 

問1

筆者は、近代以降の法社会において「等級化」が法的に否定されたと述べる一方で、社会における事実上の等級化が存在することを指摘している。近代的な法体系は、すべての人間が平等で自由であるべきだとする原則に基づき、封建社会における身分制度を否定した。しかし、現実には、特定の社会階層に属する人々が有利な扱いを受け、実質的に等級化が進行している。この事実は「上級国民論」として現れ、特権的地位にある人々が社会的に優遇される状況を問題視している。筆者は、上級国民論を現代社会における不平等の象徴として位置づけ、その根源にある不正な社会階層を批判している。

 

問2

筆者は、純然たるメリトクラシーの下で生じる評価の階層が問題となる理由として、能力主義に基づく社会的序列が自尊心の崩壊や社会的分断を引き起こす可能性があることを挙げている。メリトクラシーでは、個人の能力と努力に基づいて成功が決まるとされるが、これにより上位に位置する者が自己の能力を誇示し、下位に位置する者は「無能」や「怠惰」と見なされがちである。この結果、社会における格差が固定化し、下位層の人々が自尊心を傷つけられることになる。また、成功しなかった者に対する蔑視が強まり、社会の分裂が進行する恐れがあるため、純然たるメリトクラシーも問題視される。

 

問3

「上向きの侮蔑」には、社会的に低い評価を受ける者が自らの特性を誇り、上位の人々を批判することで自己肯定感を得ようとする問題がある。例えば、若者の間で「リア充」への対抗意識が強まることが挙げられる。

 

<別解>

 

問1

筆者は、近代以降の法社会において、人々は平等で自由な存在として扱われるべきであり、法的には「等級化」が否定されていると述べている。しかし、実際には、特定の集団に属する人々が社会的に特権的な扱いを受け、事実上の「等級化」が進行していることを指摘している。このような状況は、「上級国民論」として表現され、特定の階層が有利な立場に立ち、一般市民とは異なる扱いを受ける現実を問題視している。筆者は、この現象が法的な平等原則に反するものであり、現代社会の不平等の根源的な問題であると位置づけている。

 

問2

筆者は、純然たるメリトクラシーのもとで評価の階層が問題となる理由として、能力主義に基づく社会的評価が、下位層の人々の自尊心を傷つけ、社会を分断させる可能性があることを述べている。メリトクラシーでは、社会的地位が個人の能力や努力によって決まるとされるが、この考え方が逆に成功した人々の優越感を強め、失敗した人々に対する軽蔑を生む。また、能力主義が徹底されると、努力をしても報われないと感じる人々が増え、社会全体の協調性が失われる可能性がある。従って、純然たるメリトクラシーがもたらす格差の固定化は深刻な社会問題を引き起こす。

 

問3

「上向きの侮蔑」には、社会的に低く評価されるグループが、上位グループの特性を批判し、自己肯定感を得る問題がある。例えば、低所得層が裕福層の贅沢を非難し、自分たちの質素な生活を誇ることが挙げられる。

Leave to chance

okutsu.info

©Shigeki Okutsu

bottom of page