慶大法 講習受講生専用ページ
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<参考資料>
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過去問「未来国家」(2013年)の設問
以下の文章は1994年に公刊された「国家の未来」と題する論稿で示されたいくつかの未来像のうち、二つを抜粋したものです。これを読み、「未来国家Ⅰ」と「未来国家Ⅱ」に共通する考え方を簡潔にまとめた上で、それに対する擁護と批判の両方を展開しなさい。 -
連載コラム「忘れられる権利」PDF 演習終了後に公開
※10年前のコラムなので、その後の変化は考慮されていませんが... -
NHK高校教育講座「政治・経済」
※授業で紹介したサイトです。自学自習で基礎知識を身につけましょう
参考問題:論述力試験(2024年)
出題意図
題材としたモーリス・クランストン氏の著書は、歴史上に名だたる哲学者、思想家、政治家の言論をできるだけ原語を活かしながら話し言葉に再現し、架空の対話を構成したユニークなものである。この著書で扱われている主題は、どれもプラトンの時代から、国家に関する諸理論の中心に据えられてきたものであり、それゆえ大学の法学部においてはつねに問題とされるものばかりである。今回出題した「革命についての対話」においては、いずれも有名な保守主義者と左派の論客が鼎談を行っている。議論の焦点となっているのは、暴力を伴う革命という政治的行為は正当化されるべきか、そして革命後に民衆が権力を担うことは是認されるべきか、という問題である。討論者たちの格調高い議論の調子を受け継ぎながら、バーク寄りの見解であれ、ペイン、ウルストンクラフト寄りの見解であれ、2つの箇所において一貫した受験生自身の見解を語り、見事に議論に加わっているかのような答案が期待される。
問題文には、本塾大学法学部に入学した後は、教員や仲間たちとの間で是非ともこのような議論をしてほしいというメッセージも込められている。
[問題]
以下に掲げるのは、ある政治思想史家が書いた架空の鼎談の一部である。
フランス革命をめぐり、一七九〇年のある日、エドマンド・バーク、トマス・ペイン、およびメアリ・ウルストンクラフトの三人が語り合っている。
よく知られているように、バークのフランス革命に対する態度は、鋭く批判的であった。一方、ペインはこの革命に対して強い共感を抱いていた。
フェミニズム思想の先駆者として知られるウルストンクラフトもまた、ペインと同様の立場に立っていた。もしこの議論にあなたが加わっていると仮定して、IおよびIIの箇所においていかなる発言をするか、それぞれ五〇〇字以内で述べなさい。Iにおいては、革命が正常な政治の一部分であるとするペインの見解に与しても、それに反対してもかまわない。ただし、Ⅱにおいては、Iで述べたのと同じ立場に立って、民主主義においては国民の多数派が最も残虐な抑圧を少数派に対して加えうる、というバークの見解に賛同するかあるいは反論を加えなさい。
ペイン:旧体制はあまりに腐敗しすぎて改革が不可能であったがゆえにこそ、破壊されねばならなかったのです。
―中略―
ウルストンクラフト:イギリス革命もフランス革命も同じひとつの至上目的を持っています。それは自由です。もしバークさん、あなたがこの点を否認するならば、それは故意に歴史に目をつぶることです。
バーク:あなたがそう主張されるならば、お嬢さん、あなたは理性に対して目を閉ざしておられる。もしもわれわれが自由を目的とするというのならば、われわれはそれがどんな種類の自由であるかを問題にせねばなりません。私はすべての種類の自由が祝福されるべきだと信じることはできません。独房から脱走した狂人に、彼が明るい自由な天地を得たことを真面目に祝福することが私にできるでしょうか?監獄を破って脱走した殺人犯に、彼の自然権の回復を祝福せよと私に言われるのですか?
ウルストンクラフト:バークさん、あなたは現在下院で演説しているのではないのですよ。本来、普通には理性的とは言えない少数の例外的人間の束縛の問題を修辞学的に提出されても、それは人間の自由に関するわれわれの問題の理解を広めることにはなりません。
バーク:しかしお嬢さん、むしろあなたのほうで先に抽象的に自由の問題を取り上げて、われわれが現に直面する特定の自由の状態の具体的知識を抜きにして、それをわれわれは愛せねばならぬと説かれたのですよ。私は、あなた一人がそうだと言っているのではなく、フランス革命の理論家や弁護者すべてを指して言っているのです。私もフランスにおけるどんな紳士にも劣らず、雄々しい道徳的な統制ある自由を愛する人間だと公言してはばかりません。おそらく公人としての自分の全生活を通じて、私はこの種の自由への愛をある程度立証してきたつもりです。しかし私は、一切の具体的関係をはぎ取られてまったく孤立した状態にある形而上学的観念に属する対象に関しては、これを取り出して称賛もしくは非難したりすることができません。
ペイン:それならば自由というものは一般に善であるという事実を、あなたは認めないのですね?
バーク:一般的に言うならばーこういう言い方が何らかの意味をもちうる範囲内でー私は自由が善であることを認めます。同時に、統治もまた一般的に言って善なるものです。しかしそうは言っても、もちろんペインさん、あなたは私が統治のすべての現実の形態を善なるものにされねばならばかったのです。と確信しているなどとは本気で考えたりしないでしょう。それと同じように、一切の自由の現実形式がすべて善いというように、あなたが私に信じ込ませることはできません。私はある人間が何か幸福をつかんだことを祝福する前に、まずその人が本当にそのような幸福を手に入れたのかどうか、ある程度まで確を得なければなりません。だから私としては、フランスにおける新しい自由について祝福を述べることを当分差し控えて、いったいその自由が統治と、公共的権力と、軍隊内の規律や服従と、効果的な歳入と、道徳ないし宗教と、社会的安定および所有権と、平和および秩序や公序良俗と、どのように結合しているかについて知っていなければならないでしょう。これらはみなそれぞれ結構なものばかりです。それゆえ、これらを抜きにした自由なるものは、たとえその自由が続いている間も大した恩恵を生み出すはずがなく、いやそれはしょせん最初から長続きする基盤を持たないのです。
ウルストンクラフト:フランス人が自由を口にするとき、それは決して冷たい思弁的抽象物を意味するものではありません。彼らが求める自由とは、各個人が社会契約によって結合しているすべての他人の自由と両立しうる限りでの、一定の社会的・宗教的な自由にほかなりません。
バーク:ああ、ウルストンクラフトさん、それではすでにあなたは、あなたが言われる自由なるものにさまざまな限定を、いやきわめて大幅な限定を設けておられる。社会における他人の欲望によって制限される自由なるものは、絶対的で譲るべからざる自由とは大違いのものです。
ペイン:人間には絶対的で譲るべからざる自由の権利があるなどとウルストンクラフトさんが言っているわけではありませんし、フランス革命に味方する人でそんなことを言った人はいないと私は信じます。彼らが主張したことは、ロックが言ったこととまったく同様に、人間には自由を要求する絶対的で譲るべからざる権利があり、しかしてその場合の自由なるものは状況に応じて他人の権利によって限定される、ということです。国民議会に人権宣言が上程されたとき、議員のなかには、もし人権宣言が公布されるならば、同時に人間の義務宣言なるものも公布されてしかるべきだと言った人々もありました。しかし十分に物事を考察した人々にとっては、人権宣言はそれ自体で同時に人間義務の宣言だという事実が容易に洞察されるでしょう。私の権利に属するものは同時にとりもなおさず他の人々の権利でもあるわけですから、自己一個の権利を享受するばかりでなく、万人の権利を広く保障し擁護することが私の義務となるのです。
ウルストンクラフト:その通りです。われわれがフランス革命の道徳的高貴さを認めうるのは、他ならぬこの種の理由によってなのです。
バーク:お嬢さん、道徳的高貴さですって!あなたはフランス革命を引き起こして、さらにそれを維持するために、あらゆる種類の圧政と残虐が行われたことを、つまり詐欺、ペテン、暴力、強奪、放火、殺人、没収、紙幣の強制流通等々の事実を知ったうえで、なお「道徳的高貴さ」と言われるのですか?
ウルストンクラフト:もしフランスで暴力が振るわれたとすれば、それは特権階級が自らの特権を放棄することを拒否したためなのです。
ペイン:バークさん、私には今になってあなたがフランス革命を憎む理由がわかりました。もしもそれが悪名高い圧政を破壊することに限定されていたら、おそらくあなたは沈黙を守ったでしょう。それがもっと先へ進んだからこそ、あなたは驚愕したのです。ただそれは、あなたの考えにとって先に進みすぎたというにすぎません。フランス革命は社会的腐敗と正面から取り組み、悪に報いるに徳をもってしました。それは位階制度と特権という古い社会秩序に代わるに、社会正義と友情と自由と平等の新しい考えをもってしたのです。
バーク:ペインさん、確かにフランスに起こったさまざまな革命には、礼節の革命までが含まれているに違いありません。一七八九年十月六日の朝のこと、フランス国王と王妃は混乱と驚愕と不安と流血の一日が過ぎた後にー身辺の安全の公式な保障のもとに床につきました。王妃が最初に護衛兵の悲鳴で眠りから覚めたのですが、この護衛兵士はたちまち打ち倒されました。血に渇いた残虐な無法者と殺人者の一団が王妃の部屋に侵入しました。彼女とその夫とその子供たる児たちは、この世で最も壮麗なこの宮殿(今では殺人の血で汚された)を後にして、最も下賤な女どもが発するぞっとするような叫び声と気違いじみた踊りのなかを捕虜として十二マイルの道のりを引っ張りまわされて、今では王族にとってのバスチーユとなり変わったパリで最も古い宮殿のひとつに押し込められました。歴史はこの事実を記録にとどめるでしょう。
―中略―
ウルストンクラフト:バークさん、あなたは人間の営みにおいてはある程度の悪が必ずや不可欠であると言われましたが、それなのにあなたは何故にフランスで実現されたさまざまな善のなかに偶然生じたにすぎぬこの種の悪にそれほど立腹されるのですか?
ペイン:どんな革命においても暴力は程度の差こそあれ、使用されねばなりません。それは正常な政治の一部分です。
あなた:Ⅰ
―中略―
ウルストンクラフト:ルイ十六世治下のフランスは、最も重い病気で苦しんでいました。
バーク:お嬢さん、そして今フランスは、人民による圧政のもとで、それよりもはるかにひどい病気で苦しんでいます。
ペイン:あなたが何故にフランスの民主制度を憎悪されるのかが私には今わかりました。バークさん、あなたは一般民衆を軽蔑されるのですね。
バーク:ペインさん、私が議論において必ずしもあなたに同意できないとしても、その点は大目に見てください。あなたによれば私は、最徒の狂言と不敬心を悲しむゆえに一般民果を軽蔑していることとなります。また、あなたは私のことをフランスの民主制度を憎悪するものと言われますが、実際には、そこには憎悪すべき民主制度そのものが存在しないのです。われわれがフランスのなかに見るものは民主制、いや無政府ですらありません。それは動揺つねなき不安定な民衆の支持を得ながら次々にすぐ交代していく短命の圧政の継起でしかありません。
ウルストンクラフト:バークさん、正直に言ってください。たとえフランスの体制が民主的であることに納得したところで、あなたはそれへの反対を続けられるでしょう。
バーク:おそらく私はそれへの批判を続けるでしょう。統治の方法としての民主制は、私の目には理想的なものとは映りません。髪結い人や脂蝋燭商人が国家の圧政を受けることは許されませんが、しかし逆にこれらの連中が個人的にせよ集団的にせよ、国家を統治することが万一許されるならば、国家それ自体が抑圧されましょう。
ウルストンクラフト:バークさん、とうとうあなたはご自分の偏見を告白されました。私の、そして今日のフランス国民の信念によれば、髪結い人や脂蝋燭商人も侯爵や公爵と同じく、いや、おそらく彼らよりも立派な統治者たりうるのです。
バーク:なるほど同じように立派かもしれないが、しかしそれだけ賢明な統治者ではありえません。選挙人や立法者にとって必要なのはまさしくこの種の英知なのです。
ペイン:あなたが金持ちは知恵を持つとじる根拠は何ですか?
ウルストンクラフト・彼らは富を有していますが、富と英知とはまったく異
なったものです。
バーク・富は閑暇をあがなうものであり、閑暇は人を反省に導きます。あなたは聖書のなかの次の巧みな表現をご存じでしょう。「学者の英知は暇から生まれる。を取るもの…牡牛を追って熱心に労働するものが如何にして賢くなるであろうか?」
ペイン:ところで、私はべつに髪結い人や脂蝋燭商人であったことはありませんが、十三歳で早くも学校を退いてコルセット製造人の徒弟になった身ですから、あなたから見れば私もこれと同類だと思われるでしょう
バーク:あなたはもはやコルセット製造人ではありません、ペインさん。あなたは私と同じジャーナリストです。したがって、その身分上国家の役に立ちうべくもない徒輩ではなくて、ご自分の才能により善と悪の双方を共に果たしうる能力を例外的に備えている人物です。あなたは善と悪の両方を行われました。しかし最近では、悪だけを残したと私は断言してよいでしょう。
ウルストンクラフト:バークさん、あなたは、富者は英知を持つと主張されます。なるほど彼らは、しばしば彼ら自身の利益のための立法において、その才を発揮することを私も認めます。しかし、フランスの上流階級は、このことひとつさえ果たしたとは、ほとんど言えないでしょう。彼らは自己の近視眼と愚行によって、自分自身の身の破滅を招いたのです。われわれはあなたの言われる髪結い人や脂蝋燭商人のなかに、むしろいっそう多くの英知と、そして疑いもなくいっそうの常識を見出しうるというのが私の信念です。
バーク:確かに貧乏人は、抑圧がどのように身にこたえるかを知っているでしょう。しかし彼らには、それを癒す術を知るほどの英知はありません。そのうえ財産を持たないために、彼らには当然、責任感というものがないのです。
ペイン:バークさん、実際あなたはたとえ民衆を軽蔑していないとしても、やはり彼らを信用してはいないのですね。
バーク:ペインさん、私は民衆を共しく、そしてほとんど妄信的とも言える畏敬で見上げているとあなたに確言しますが、しかし私が心にもないことを彼らに言ったりするならば、私は彼らに十分な敬意を払ったことにはならぬと信
じます。ひとつのことは私には確実です。それは民主主義においては、国民の多数派が最も残虐な抑圧を少数派に対して加えうるという事実です。そして、この種の抑圧は、ただ一人の統治者から懸念されうるいかなる抑圧にもましてはなはだしい害悪なのです。この種の大衆的な迫害においては、個々の被害者は他に比べるもののないほど惨めな状態に陥ります。残忍な君主のもとでは、彼らは人類の和らいだ共感の情を得て自らの傷の痛みを癒しうるのに反し、多数派の圧政に虐げられる人間は、一切の外的な慰めを奪われます。彼らは人類から見放され、人間という彼ら自身と同じ種族の謀議によって圧殺されるのです。
あなた:Ⅱ
出典:モーリス・クランストン著、山下重一ほか訳『政治的対話備』(みすず書房、一九七三年)。
注:原文には、今日では差別的で不適切とみられる語句や表現がいくつかあるが、原著者が考える登場人物の性格をあらわしているとみられるため、そのままとしてある。また、試験問題として使用するために、文章を一部省略・変更している。
トレードオフ事例集
2026入試前日に公開したものです。自分なりに視点・論点を設定して、800字程度の論述を展開してみてください。
1. 法的安定性 vs 具体的妥当性
ルール通りに裁くべきか、個別の事情を汲み取って救済すべきか。
私たちが社会で安心して生活できるのは、「法は簡単には変わらない」という前提があるからである。もし法律が、その場の雰囲気や裁判官の考え方によって毎回違う結論を出すとしたら、人々は明日の行動を予測できず、仕事や生活は成り立たなくなる。このように、法を一定に保つことを法的安定性という。
しかし、この安定性が、必ずしも常に正しい結果を生むとは限らない。例えば、空腹で生きていくことができず、やむを得ずパンを一つ盗んだ人がいたとする。法律の条文だけを見れば「窃盗」であり、処罰の対象となる。しかし、その事情を一切考えずに厳しい刑罰を科すことが、本当に正義と言えるだろうか。このように、個々の事情を踏まえた納得できる判断を具体的妥当性という。
法は、この二つの価値の間で常に揺れてきた。そこで現代の法は、「解釈」という方法を用いる。法律の文言を尊重しつつも、信義則や権利濫用といった考え方を使い、機械的ではない判断を行うのである。例えば、契約書には書かれていなくても、「それをしたら相手が著しく困ることは予測できたはずだ」という場合には、契約の自由よりも公平さが重視されることがある。
ここで重要なのは、「ルールを守ること」と「目の前の人を救うこと」のどちらを優先すべきかを、状況に応じて考える力である。緊急性が高いのか、社会全体に与える影響は大きいのかといった点を踏まえ、判断の基準を示すことが求められる。
法的安定性は、「人の気分による支配」から「法による支配」へと社会が進む中で獲得された、大切な価値である。しかし、社会の変化が速い現代では、法律が現実に追いつかない場面も多い。例えば、デジタル遺産の相続のように、インターネット上のデータやアカウントは、古い民法では十分に想定されていなかった。
このような場合、条文に書かれていないからといって「保護できない」と切り捨てるのが法的安定性なのか、それとも「そもそも相続制度は何のためにあるのか」という目的に立ち返り、新しい解釈を考えるのが具体的妥当性なのかが問われる。
具体的妥当性とは、単なる感情的な同情ではない。法律が本来目指していた目的を考え直し、社会の常識と結びつけて判断する、知的な作業である。私たちには、法律を文字通りに適用することでかえって不公平が生じるとき、法がどのように社会と向き合うべきかを、自分の言葉で論じる姿勢が求められている。
2. 自由(リバティ) vs 安全・秩序
個人の権利を尊重するか、監視や規制で社会の安全を守るか。
近代の市民社会は、国家からできるだけ干渉されずに生きる自由、いわゆる消極的自由を守ることから始まった。思想や言論、行動を国家に制限されないことが、人間の尊厳を支えると考えられてきたからである。
しかし21世紀の社会では、事情が大きく変わっている。テロ事件、感染症の世界的流行、サイバー犯罪の拡大などにより、「多少の自由を制限してでも、安全を確保すべきだ」という意見が強まっている。駅や街中に設置される監視カメラ、感染症対策としての外出制限や行動履歴の把握は、その代表例である。
ここで重要なのは、自由と安全は両立しにくい関係にあるという点である。安全を徹底的に追求すれば、国家や組織が人々の行動を常に監視する社会になりかねない。これは、すべてを見通す強大な権力が人々を支配する「リヴァイアサン」の再来とも言える。一方で、自由を何よりも優先すれば、暴力や犯罪を防げず、弱い立場の人が危険にさらされる社会になってしまう。
そのため論述では、「どの自由が制限されるのか」を丁寧に区別することが重要である。例えば、営業規制や移動制限といった経済的自由と、思想・信条や表現の自由といった精神的自由とでは重みが異なる。民主主義の土台となる精神的自由については、安全のためであっても、極めて慎重な制限しか許されないと考えるのが一般的である。
さらに、この問題を深く考えるためには、誰が監視しているのかという視点が欠かせない。かつて自由を脅かす存在は、主に国家権力であった。しかし現代では、私たちの行動履歴や嗜好を大量のデータとして集める巨大IT企業が、大きな影響力を持っている。便利なサービスと引き換えに個人情報を差し出すことで、知らないうちに行動や選択を誘導されている可能性がある。
例えば、テロ対策として顔認証技術を導入する場合、「プライバシーと安全のどちらが大切か」という単純な対立だけでは不十分である。一度収集された個人データや、失われた情報の自己決定権は、後から完全に取り戻すことが難しい。ここには、自由が失われることの不可逆性という問題がある。
安全という結果を得るために、自由という過程をどこまで犠牲にしてよいのか。この問いに正解はない。しかし、自由が一度失われれば元に戻らない可能性があることを踏まえ、制限の範囲と条件を慎重に考える姿勢こそが、現代社会に求められている。
3. 平等の原則 vs 個人の自由(所有権)
格差是正のための再分配(福祉)か、個人の努力の結果(私産)の保護か。
「豊かな人」と「そうでない人」の格差をどう扱うかは、政治学において最も重要なテーマの一つである。まず、**リバタリアニズム(自由至上主義)**の立場では、個人が正当に得た財産は、その人のものであり、国家が税金として取り上げ、他人に分け与えることは権利の侵害だと考える。努力や才能の結果として得た成功を尊重することこそが、人々の意欲を高め、社会全体を活発にすると考えるからである。
これに対して、リベラリズム、特にロールズの「正義論」は、個人の成功は努力だけで決まるものではないと指摘する。生まれつきの才能や家庭環境、受けられる教育といった要素は、本人の選択とは無関係な「運」に大きく左右されている。だからこそ、それらを社会全体の共有財産と考え、弱い立場の人を支えるために再分配を行うべきだと主張する。
この対立を論じる際に重要なのは、「かわいそうだから助けるべきだ」という感情論にとどまらないことである。問題は、機会の平等を掲げるだけでは救えない不平等が、現実には存在するという点にある。貧困や教育格差が固定化された社会では、スタートラインそのものが大きく異なり、努力する機会さえ得られない人が生まれてしまう。その構造をどう是正すれば、社会全体が安定し、持続可能になるのかを考える視点が不可欠である。
ここで注目すべきなのが、現代社会に広がる**能力主義(メリトクラシー)**の問題点である。政治哲学者マイケル・サンデルが指摘するように、「成功はすべて自分の努力の結果だ」という考え方が徹底されると、うまくいかなかった人は「努力が足りなかっただけだ」と切り捨てられやすくなる。その結果、社会に分断や対立が生まれてしまう。
再分配は、単に弱い人を助けるための制度ではない。それは、個人の成功が、道路や治安、教育制度といった社会のインフラや公共サービスに支えられていることを認め合う行為である。言い換えれば、再分配とは、私たちが同じ社会の一員として生きていることを確認する「社会契約」の再確認でもある。
私たちには、財産を持つ自由という排他的な権利と、人と人が共に生きるための共同体への義務を、どのように調整すべきかを問う視点が求められる。格差が固定化された社会では、もはや機会の平等そのものが機能しなくなる。自由な社会を維持するためには、あえて一定の平等、すなわち再分配が必要になるという、この逆説的な考え方は、現代社会を理解するうえで極めて重要である。
4. 多数決原理 vs 少数者の権利
民主主義の決定に従うべきか、マイノリティの基本的人権を守るべきか。
「民主主義とは、多数決で物事を決める仕組みである」という理解は、一部しか正しくない。確かに多数決は、意見が分かれたときに結論を出すための有効な方法である。しかし、民主主義の本質は、単に数の多い意見が勝つことではなく、その結果に少数派も一定の納得ができる過程が用意されている点にある。
もし多数派が人数の多さを理由に、少数派の言語や宗教、さらには生きる権利そのものを奪うような決定をしたとしたら、それは民主主義ではなく、「多数派の専制」と呼ばれる暴力に変わってしまう。民主主義は、多数派が何をしても許される制度ではないのである。
このような事態を防ぐために重要な役割を果たすのが、司法である。裁判所は、国会などの多数決による決定であっても、それが憲法に反していれば無効にできる。この違憲審査制は、憲法が「多数決でも変えてはならないルール」であることを示している。つまり、政治の場で声が小さくなりがちな少数者の権利を守るための最後の防波堤なのである。
論じる際には、多数決が迅速で効率的な意思決定を可能にするという利点を認めたうえで、それが「他者の尊厳」を踏み越えそうになったとき、どのように歯止めをかけるべきかを考える必要がある。制度としての憲法や裁判所だけでなく、社会全体の倫理観も含めて論じることが重要である。
このテーマを深く考える鍵は、熟議の質にある。現代のSNS社会では、似た意見ばかりが集まるエコーチェンバー現象によって、多数派の考えが過激になり、少数派への排除が加速しやすい。だからこそ、多数決を単なる「決定の方法」としてではなく、そこに至るまでに「反対意見の不安や懸念をどれだけ議論に反映させたか」という合意形成の過程として捉える必要がある。
憲法が保障する精神的自由権、たとえば思想や表現の自由が、多数決の対象から外されているのも、この理由による。真理の探究や民主主義の健全な働きには、異なる意見、すなわち少数派の存在が欠かせないからである。
多数決の正当性は、単に人数が多いことにあるのではない。少数派が意見を表明し続け、次の機会には多数派になれる可能性が保障されていることにこそ、民主主義の核心があると論じることが望ましい。
5. パターナリズム vs 自己決定権
国家が「良かれ」と干渉すべきか、本人の意思(例:尊厳死)を優先すべきか。
「あなたのためを思って」という理由で、国家や周囲の人が個人の選択に介入することは、どこまで許されるのだろうか。バイクのヘルメット着用義務のように命を守るためのルールがある一方で、安楽死や尊厳死の是非のように、人生の終わり方そのものをめぐる問題も存在する。ここでは、パターナリズム(父権的介入)と自己決定権が正面から衝突する。
この問題を考えるうえで重要なのが、思想家J.S.ミルの他者危害原則である。ミルは、「他人に害を及ぼさない限り、個人の自由は最大限尊重されるべきだ」と考えた。この立場に立てば、たとえ自分自身を傷つける選択であっても、国家が口出しすべきではないという結論になる。
しかし現代社会では、個人の選択が完全に「自分だけの問題」で終わることは少ない。例えば、危険な行動によって大きなけがをすれば、医療費や介護といった社会全体の負担が増える。また、家族や周囲の人の人生にも影響を及ぼす。このように、個人の自由と社会との関係が複雑に絡み合っている点が、判断を難しくしている。
そこで重要になるのが、介入の是非を判断するための基準である。一つは、その選択が本人の真の意思に基づいているかどうかである。もう一つは、その選択が取り返しのつかない、回復不可能な損害をもたらすかどうかである。この二点を丁寧に検討することなしに、介入の正当性を語ることはできない。
この問題が最も鋭く表れるのが、医療や生命倫理の場面である。インフォームド・コンセントが重視される現代でも、強い痛みや絶望の中にいる患者の「死にたい」という意思が、本当に自由な判断なのか、それとも一時的に冷静さを失った状態での選択なのかを見極めることは極めて難しい。
ここで忘れてはならないのは、自己決定とは必ずしも「一人きりで行う決断」ではないという点である。人は、支え合いや対話といった他者との関係の中でこそ、自分の意思を形づくっていく。自由を理由に何もしない態度は、結果として「見捨て」につながることがある。一方で、善意を理由にした過度な介入は、「支配」になりかねない。
受験生には、個人の尊厳を守るために国家や周囲の人がなすべきことは、単純な介入か放置かの二択ではないことを示してほしい。重要なのは、本人が自分で考え、納得して選択できるような環境を整えることである。この「ケア」の視点を取り入れることで、自己決定と介入の対立をより立体的に論じることができる。
6. 功利主義 vs 義務論(正義論)
「最大多数の最大幸福」か、数値化・計量化できない個人の尊厳(不可侵性)か。
「1人が犠牲になれば100人が助かるとしたら、その犠牲は正当化されるのか」という問いは、功利主義と義務論の違いを最も分かりやすく示す例である。
功利主義は、ベンサムに代表される考え方で、「社会全体の幸福の合計を最大にすること」を正義とする。多くの人がより幸せになる選択が、最も望ましいと考える立場である。この考え方は、道路建設や医療・教育への予算配分など、限られた資源をどう使うかという公共政策の場面では、非常に合理的で実用的な判断基準となる。
これに対して、カントに由来する義務論は、人間を決して単なる「手段」として扱ってはならないと考える。一人ひとりの人間は、それ自体が尊重されるべき「目的」であり、たとえ多くの人が助かるとしても、誰かの基本的人権を犠牲にすることは許されないという立場である。個人の尊厳は、計算の対象にしてはならないという考え方である。
小論文では、社会全体の効率を重視する**行政的な視点(功利主義)と、個人の権利を最優先する法的・倫理的な視点(義務論)**がしばしば衝突することを押さえる必要がある。そのうえで、両者が対立したとき、どのような基準で優先順位をつけるべきかを論理的に説明することが求められる。
この問題は、AIや自動運転車をめぐる「トロッコ問題」に象徴されるように、緊急時の判断では避けて通れない。事故が起きそうな瞬間に、誰を守り、誰を犠牲にするかという判断には、どうしても功利主義的な「計算」が入り込む。
しかし、社会の基本的なルールや制度を設計する段階で、功利主義を無制限に用いることには大きな危険がある。効率を最優先するあまり、特定の人々や弱い立場の集団が「仕方のない犠牲」として切り捨てられる社会になりかねないからである。
この点について、ジョン・ロールズは**「無知のヴェール」**という思考実験を提示した。自分が将来、社会の中で強い立場になるのか、弱い立場になるのか分からない状態で社会のルールを決めるとしたら、人は誰もが「最悪の場合でも生きていける」公平な制度を選ぶはずだ、という考え方である。
論述では、政策決定において効率や全体利益を考えることの重要性を認めつつも、それが個人の生きる権利や基本的人権を侵害しそうになったとき、どこに最終的な歯止めを設けるべきかを明確にする必要がある。功利主義が有効に機能する場面と、義務論によって守られなければならない一線、その境界線を示すことが、説得力ある議論につながる。
7. 普遍主義 vs 相対主義
人権は世界共通か、各地域の伝統や宗教的な価値観が優先されるべきか。
「人権」という考え方は、もともと西欧近代の歴史の中で形づくられたものである。この価値観を世界中の社会に当てはめようとする立場は、普遍主義と呼ばれる。しかしこの考え方は、ときに他の地域の伝統や宗教、生活様式を否定する「価値観の押し付け」だとして批判される。こうした批判の背景にあるのが、文化相対主義の立場である。
文化相対主義は、それぞれの社会には固有の歴史や価値観があり、外部の基準で一方的に評価すべきではないと考える。しかし、文化の違いを尊重するあまり、女性が教育を受けられない、子どもが早くに結婚させられるといった深刻な人権侵害を、「その社会の文化だから」として見過ごしてよいわけではない。この点に、人権をめぐる大きなジレンマがある。
この問題を考えるためには、どこまでが尊重されるべき「文化の違い」であり、どこからが「人間として決して譲れない共通の基盤」なのかを見極める必要がある。グローバルな正義と、地域ごとの倫理が衝突する場面では、一方的に自分たちの価値観を押しつける姿勢も、問題を放置する態度も、ともに適切とは言えない。重要なのは、対話を通じて合意点を探る姿勢である。
グローバル化が進む現代社会では、さまざまな価値観が交錯し、「西欧的な人権観だけが唯一正しい」と主張することはもはやできない。一方で、文化相対主義を極端に押し進めてしまうと、虐殺や弾圧といった明らかな「悪」を批判する基準そのものを失ってしまう危険がある。
そこで目指すべき考え方として注目されるのが、**「重なり合う合意」**である。宗教や伝統、生活習慣が異なっていても、「理由なく身体を拘束されない」「最低限の食事や生活が保障される」といった、人間としての基本的な尊厳については、多くの文化で共有できるはずだという考え方である。
受験生には、他者の文化や価値観に対する謙虚な想像力を持ちながらも、人間の普遍的な苦痛に対して沈黙しない姿勢が求められる。文化の違いを「正義を放棄する言い訳」にしないこと。そのうえで、対話を通じて共通の基盤を築こうとする「開かれた普遍主義」を、自分の言葉で論じることが重要である。
8. 効率性 vs 適正な手続き(デュー・プロセス)
迅速な意思決定や経済発展か、時間をかけた民主的・適正な議論か。
「結論が正しければ、途中の手続きは簡単でもよい」という考え方は、ビジネスの世界では効率的で評価されることがある。しかし、法の世界においてこの発想は重大な問題をはらんでいる。**正当な手続き(デュー・プロセス)**とは、国家権力が思いつきや都合で人を裁くことを防ぐための、最も重要な仕組みだからである。
例えば、誰が見ても怪しいと思われる容疑者であっても、弁護人をつける権利があり、証拠を確認し、公開の場で裁判を受ける機会が保障されなければならない。もし「どうせ有罪なのだから」として手続きを省略してしまえば、その判断が間違っていた場合、取り返しのつかない被害が生じる。正当な手続きは、無実の人が不当に罰せられることを防ぐための安全装置なのである。
近年では、AIを用いた行政判断などが、「迅速で効率的だ」という理由で導入されつつある。しかし、手続きを省くことは、国民が判断の理由を知り、異議を申し立て、納得する機会を奪うことにもつながる。効率はあくまで目的を達成するための手段にすぎない。一方で、手続きは正義が正しく実現されていることを保証する土台である。この二つを取り違えてはならない。
司法の分野でも、「司法取引」や「AI裁判」といった効率化の動きが見られる。確かに、裁判が長期化することで被害者や当事者が苦しむ場面もあり、迅速な解決には一定の価値がある。しかし、刑事手続きにおいて被告人の権利を守ることは、単に一人の犯罪者を守ることではない。それは、国家が誤った判断によって無実の人を簡単に罰することができてしまう社会、いわば「恐怖による支配」へと転落するのを防ぐための防波堤である。
正当な手続きの本質は、「正しい結論にたどり着くこと」以上に、「権力の行使に歯止めをかけること」にある。権力を持つ側は、常に効率や正しさを理由に手続きを省こうとする。しかし、そこであえて時間をかけ、議論を重ねることに意味がある。
論じる際には、効率化によってもたらされる利点、例えば迅速な権利回復や負担の軽減を認めたうえで、手続きの簡略化が権力の透明性や説明責任を損なう危険性を指摘することが重要である。法とは、効率を求める強い立場の人のための道具ではない。たとえ遠回りであっても、弱い立場の人が自分の言葉を尽くすための「最後の砦」であることを強調したい。
<参考問題>「問う能力」の再開発(2006年)
若い世代の「問う能力」の欠落を指摘し、その再開発の必要性を説くことが出題・課題文の趣旨です。 出題も20年前で、課題文も50 年も前のものですが、筆者の指摘は現代にも通じるものがあります。ある課題について問題を発見し、 自学自習を通じて分析していくときの基本になるのが「問う能力」です。2025 年に変更された課題小論文「小論文」は、受験生が日常のさまざまな学びを通じて育んできた「問う能力」を試す出題のように思えます。
【設問】 以下の文章を読んで、1著者の論旨を要約して論評し、その上で、著者の見解を参考にしつつ、2あなた 自身が人に話を聞きにいくときに大切だと考える点を、作法やマナーと呼ばれるものも含めて、二点以上 挙げてその理由を説明しなさい。挙げる点は課題文に言及されているものに限らない。また、3あなたが 何か学術的な聞き取り調査に行くと想定して、どういう調査で、どういう人に、どんな質問を用意してい くかを自由に書きなさい。なお、解答の記述にあたっては、上記三点の解答箇所がわかるように、文章の 最初に一、二、三と数字を付すこと。
ひとの話をきく、というのはいいことだ。どんな人と話をしても、かならず勉強になる。人生や社会につ いて視野をひろげてゆくためにも、たくさんの人の話をきくことがのぞましい。 しかし、ひとの話をきくというのは、レコードやテープを機械にかけてその音声をきく、ということとは ちがうのである。レコートやテーブは、スイッチをいれさえすれば、ひとりでにスピーカーから音が流れ てくる。しかし、生ま身の人間の話は、スイッチをいれたからきこえてくる、というわけのものではない。 たとえば、ここにバングラディッシュの⺠話について知りたい、という人がいるとしよう。そして、さい わい、この問題について造詣の深い学者を見つけることができ、その学者をたずねて対面する機会にめぐ まれた、と仮定しよう。そんなとき、ただ黙ってすわっているだけでその学者がぺらぺらとしゃべってく れるものであろうか。黙ってすわっているだけでは、相手は、ただけげんそうな顔つきで見つめ、しばら く時が経つと、なんとなく不気味で不愉快な気分になってしまうにちがいない。 どうしたらよいのか。常識でわかることだが、ひとを訪ねたら、こちらから口をひらき問いを発しなけれ ばならぬ。問いがあって、はじめて答えが得られる。つまり、話を聞くということは問うことなのである。 問いかけがなければ、なにごとかさっぱりわからない。そして、問いと答えの連続によって会話というも のが進行する。ひとをたずねて取材する能力は、べつなことばでいえば問う能力ということにほかならな い。 それだけではない。問いかたのじょうずへたが取材の優劣をきめる。かつて、梅棹忠夫氏は問いと答えと いうものは、鐘と撞木のようなものだ、といわれたことがある。鐘の鳴りようは、どんなふうに撞木がそ れを打つかによってきまる。腹のさだまらない、へたな人がよろよろと撞本を鐘にあてても、鐘は弱くコ ロンと鳴るだけであろう。しかししっかりした人物が、力をこめて打つべきところにぴったりと撞木を打 ちつけるなら、鐘はこころよいひびきを朗々と鳴りわたらせるにちがいない。たしかに、そのたとえは正 しい。取材する人の問いがへたなり、取材されるがわからかえってくる答えはなんとなくぼんやりしたも のになるだろう。そしてそれと対照的に、問いがきちんと整理され、的を射たものであるなら、すばらし い答えがかえってくるであろう。取材されるがわが、いかに大学者、もの知り、わけ知りであろうとも、 取材するがわの問う能力が貧困であるなら、せっかく面談しても、たいした収穫はないものなのだ。ひと の話をじょうずにきくためには、よき問いを発する能力が必須なのだ。ひとに会いにゆけばしぜんに話がきける−そんなかんがえかたをもつ人がいるとすれば、それは大きなまちがいなのである。 そして、いまの日本人、とりわけ若い学生たちに欠落している能力は、問う能力だ、とわたしは思う。日 本の大学の教室などというのはその貧困が典型的にあらわれている場所であって、学生たちは、先生にむ かっておよそ問うということをしない。たまに問う学生がいても、じょうずに問う人間はすくない。 (中略) ほかのところで書いたことだが、外国の大学で教えていると、授業というものはことごとく問答の連鎖で あることに気がつく。さいしょ一〇分間ほど話をすると、すぐに五、六人の学生から手があがる。その問 いに答えていると、その答えに反応してつぎの質問が投げかけられる。そういう対話の流れが授業という ものなのだ。知的訓練というものは、じょうずな問答の訓練のことなのである。それは、生ま身の人間ど うしが対面したときにはじめて可能なことだ。教室の意味とは、そこで問答が展開されるというところに ある。問答のない教室には、なんの意味もない。 多くの人たちは、マンモス教室、マス・プロ教育といったことばでこんにちの日本の大学を批判する。ビ デオ・テープを使ったりして教育の機械化をすることについてもたいていの人が反対する。そしてその理 由というのは、申し合わせたように「人問的接触の不在」ということだ。それはそのとおりだと思う。し かし、その「人間的接触」の場であるはずの教室で、まったく問答がないという事実をみると、たいへん に逆説的なことだが、マンモス教室だっていいではないか、といいたくなってしまう。 問う能力、というのは、この本のはじめのほうに書いたように、問題を発見することであり、あるいは問 題意識をもつということである。問いがない、ということは、こんにちの若ものたちがおしなべて問題を 見つけていないということであり、見つけようともしていない、ということでもある。こんにちの大学生 をわたしは知的難⺠ということばで表現したが、かんがえればかんがえるほど、日本の教育の事態は深刻 なのである。 だからこそ、わたしは、問う能力の再開発をこんにちの教育の最大の課題だとかんがえる。この能力の開 発なしに、情報を使うことは不可能だし、とりわけ、ひとにじょうずに話をきくことなどできた相談では ないのだ。落語には「こんにゃく問答」というのがあって、まことにトンチンカンな「問答」が笑いをさ そうが、たとえば禅の世界などでは、問答が精神を深める方法であったし、ブラトン以来の弁証法という のも、人間的レベルでいうなら、じつは「問答」ということなのであった。取材の過程は、問答の過程と 同義であり、その問答の能力は、ひとの話をきくという場面でもっともはっきりとためされるものなので ある。
(中略) いささか、へんな言い方かもしれぬが、とりわけ学生たちはこのへんでひとつの意識革命を必要としてい る、とわたしは思う。つまり、学生は先生を使うことをもっとかんがえるべきなのだ。先生たちはもの知 りである。本もたくさん読んでいるし、経験もゆたかだ。要するに、先生たちは情報のタンクのような存 在なのである。先生が教室で話すことは、そのタンクのなかに貯蔵されている情報のごく一部であるにす ぎない。学生である、ということはそのタンクのなかから、自由に、そして貪欲に情報をひき出すことが ゆるされている、ということだ。そして教室というのは、そんなふうに情報をひき出すための場所なので ある。大学というところは知識の切り売りの場所でしかない、といったことをいう学生がいる。しかし、 切り売りが気にいらないなら、もっとべつな買い方をしたらよろしかろう。そのためには、日本の教室の 伝統を破って、堂々と臆せずに手をあげ、知りたいことを問うべきだ。たいていの先生は、それを歓迎す るはずなのである。スーパー・マーケットのごとき切り売り現象が発生したのには、売り手がわの便宜も あろうが、買い手がわもそれを望んできたからである。学生たちが、よき問いを発することができるようになれば、教室の風景はがらりとかわってゆくだろうし、同時に、そこでこそはじめて「人間的接触」と いうものの意味がはっきりしてゆくにちがいないのである。 べつな言い方をすれば、大学にかぎらず、およそ学問というものは、学生・生徒にとっての取材施設なの である。じぶんの学びたいことを自由にひき出すことのできる場なのである。図書館を使い、先生たちの もっている情報蓄積を使う、学校はそのためにある。先生のいうことを、一字一句もらさずにノートにと り、そのとおり暗記するというのは、結局は情報に使われている、といことだ。はじめにのべたように、 われわれはいま、情報に使われる立場から情報を使う立場に、あるいは情報を受け身でうけとめ、それに よって操作される立場から、主体的に情報をえらび、それを自律的な自我形成に役立てる立場へ、という 転換をめざしている。とするなら、その第一歩は、問うこと、しかもじょうずに問うことでなければなる まい。 知的探求は、くどいようだが、問うことが出発点なのだ。問うことがあればこそ、図書館にもゆくし本も 買う。索引もひく。そして、ひとの話をきくことのたのしみも、問いあればこその経験なのである。問い がはっきりしていないで、あるいはなにを問うべきかもわからないままにひとに会いに行っても、なんに もならない。ひとの話をきくまえに、はっきりさせておかなければならないのは、じぶんにとってなにが 問題であるのか、についての自己確認である。その自己確認から問うべきこともしっかりしたかたちをと るようになるだろうし、そのしっかりした問いが投げかけられることによって、取材の対象である鐘は 朗々たる音色でこたえてくれるにちがいないのである。人間相手の取材とは、問答のことだ。問答のない 取材というのは、ありえない。学問の成果がどんなものでありうるかは、ひとえに問答の能力によるので ある。 (出典)加藤秀俊「取材学」(中央公論新社、1975 年)