<医系>小論文補充問題集
札幌医科大学2023年
以下はアドバンス・ケア・プランニング(advance care planning:ACP)について述べられたものである。文章を読んで問いに答えなさい。
問1 筆者はACPについてどのように述べているか。本文初めから(*)を要約しなさい。(200字以内)
問2 代理意思決定者の重要性について筆者の考えをまとめ、下線部にある「価値観の共有」のためにはどうすれば良いか。自分の意見を述べなさい。(400字以内)
ACPは『患者・家族・医療従事者の話し合いを通じて、患者の価値観を明らかにし、これからの治療・ケアの目標や選好(1)を明確にするプロセス』と定義され、その過程においては、身体的なことにとどまらず、心理的、社会的、スピリチュアルな側面を含むこと、治療やケアの選好は定期的に見直されるべきであること医療代理人(2)の選定や医療・ケアの選好などの話し合いの結果を文書化してもよいことなどが重要であるとされている。
一言でいうと、ACPは「患者の価値観をこれからの医療・ケアに反映させるための話し合い」である。
(中略)
我が国の高齢化率は30%を超え、急速に高齢化が進んでいる。高齢化社会の医療での課題として、①人生の最終段階にある患者が増加すること、②認知症などにより意思決定能力が十分でない患者が増加すること、が挙げられる。医療・ケアの方針決定において、患者が十分に医療者から説明を受け、納得のうえで自ら進んで受けたいと思う医療を受けること、いわゆるインフォームドコンセントが重要であることは皆さんの同意が得られると思うが、終末期においては約7割の患者で意思決定能力が十分ではなく、かつ高齢化によって意思決定能力が十分でない方が増えることから、患者から同意を得ることが難しく、ご本人の意向を推定して、家族等と医療従事者が相談の上で今後の医療・ケアの方針を決めることが多くなる。このような場合。前もって患者、家族等、医療編祉従事者がもしもの時にどのような医療やケアを受けたいかについて前もって話し合うこと、つまりACPの重要性が注目を浴びてきた。
(中略)
一般的に早すぎる時期(健康な時や病状が安定している時など)に詳細な生命維持治療に関する話し合いを行うと不明権、不正確なものとなってしまうと言われており、また、遅過ぎると行われないため、患者の準備状態を判断した上で、タイミングを逃さない実施が必要であると言われている。対象者が一般国民の場合(健康な時、もしくは病気療養中でも状態が安定している時)は、話し合いの結果が変化しにくく、「代理意思決定者(3)の選定」や「もし自分の命が短いことを自覚した時、どのようなことがいちばん大切か、してほしいこととしてほしくないことは何か?その理由は何か?」「これができないまま生きていくことは考えられない、という自分にとって欠かせない機能はどんなことか?その理由は何か?」などについて話し合っておくことがおいとされている。
(中略)
患者・家族と、今後の治療・ケアや療養の場の調整を行う時には、「もし悪くなったらどうするか」だけが話の焦点となり、患者にとって悪い話題ばかりになってしまうことがある。時に患者は、「縁起でもない」「希望がない」と感じて、外来の通院を中断してしまうこともある。病気の早期から一貫して患者の最善を期待し、患者が現在大切にしていることや、希望が最大限達成できるような支援やコミュニケーションを行う一方で、(あってほしくはないけれど)最悪の事態を想定し、「もしもの時にどうするか」について、患者の考えや価値観、具体的な選択肢を話し合うことが重要である。
意思決定は、時につらい現実を患者に突きつけることにつながる。患者と今後のことを話し合う時に、「今の状態でずっとよい状態でいられることを願っているけれど、もしかすると、可能性として、病気が進行することがある。そうなった時の〇〇さんのことが心配になっている」ということを率直に伝えるとよいとされている。「その上で、あらかじめもしもの時のことを相談し、準備をする」というスタンスが重要である。
(*)
終末期においては、患者の意思決定能力がなくなり、代理意思決定者と意思決定を行わざるをえなくなることがある。かしなが、代理意思決定者の多くはあらかじめ患者と病気やその治療について話し会っていないことが多いと言われている(患者も家族もお互いの負担になることを避けたいと考えるあまり先送りしてしまう傾向がある)。そのため、事前に代理意思決定者を患者に選定してもらい、その人とともに、ACPのプロセスを進めていくことが望ましいと言われている事前指示書(4)の介入がうまくいかない1つの理由として、事前指示書が、患者のみで作成されているため、その背景にある価値観が代理意思決定者と共有されていない点が挙げられている。患者には、あらかじめこのように尋ねて代理意思決定者について考えてもらうようにしている。
「万が一、体調が悪くなった場合、ご自分の意向を医療従事者に伝えることができなくなることがあります。そのような場合に、〇〇さんが大切にしていることがよく分かっていて、〇○さんの代わりに、治療などの判断をしてもらいたいと思うのはどなたになりますか?」
「もし、よろしければ次回の外来までにその方に〇〇さんのお気持ちを伝えて、一緒に外来に来ていただくことは可能ですか?」
代理意思決定者には、可能ならば外来にともに通院してもらうことをお願いし、もしもの時に、患者になり代わって、患者の推定意思(患者だったらどう判断するか)を代弁してもらうように依頼するようにする。
(中略)
実際に病状が進行した場合、「どこでどのように過ごしたいか」「どのような治療を望むか」について話し合う時には、「してほしいことや」「大切にしたいこと」に加えて、「してほしくないこと」について話し合い、その理由と背景にある価値観を、患者–代理意思決定者-医療者間で共有さることが必要である。具体的な希望や選択の背景にある「価値を共有すると、複雑な臨床現場で起こる意思決定において貴重な道しるべになる。
木澤義之「人生会議(ACP:アバンス・ケア・プランニング)本人の意向に沿った人生の最終段階の医療・ケアを実践するために」ファルマシア(日本薬学会)2020年より抜粋、一部改変
脚注
1)選好:複数の選択肢の中から好みに応じて選ぶこと。
2)医療代理人:意思表示が困難な、あるいは判断能力のない本人に代わり医療に関わる決定を下す人。
3)代理意思決定者:意思決定能力のない人の代理で決定を行う権限を持つ人。
4)事前指示書:意思定能力が無くなった場合に、医療に関する本人の希望を伝達する文書。
札幌医科大学2022年
問1 文章の前半部分(最初から*まで)の要旨をまとめなさい。(250字以内)
問2 下線部に関して、筆者の考えを踏まえ、不快感から自分の意見に批判的な意見を退ける傾向を弱めるにはどのようにすればよいか、具体例を一つあげ、あなたの考えを述べなさい。(400字以内)
残念ながら我々は、生まれながらに統計を理解できるわけではありません。例えば、健康で長生きする人が増えたというデータがあっても、自分自身が健康でいられるか分からないから不安だという人がいますが、それは論理的とは言えません。そうしたあいまいな不安感を解消するためにも、データと統計について学校で早めに教えるべきです。
意外に思うかもしれませんが、データを正しく理解できるかどうかは、知能の高さとは関連しません。
次のような実験があります。ある皮膚疾患に新種の塗り薬を塗ってもらった場合と、塗らなかった場合で、それぞれ症状が改善した人数と悪化した人数を示しました。
ここで、薬は効いたか効かなかったか質問します。薬を処方した人数と処方していない人数は異なるので、効果については、その割合を比べなければなりません。計算が苦手な人は、人数だけを比較して答えを間違え、計算が得意な人は割合を比較して正しく答えました。
ところが、別バージョンの実験を行うと、結果は大きく変わりました。皮膚疾患を犯罪率に、塗り薬を塗ったかどうかを、市民が公共の場で銃を携帯することを規制するかどうかへと問題の内容を変えたのです。
すると、犯罪率が銃規制によって「低下」したことを示すデータが示されたとき、銃規制を行うべきだと考える、リベラルで計算に強い人は、データを正しく読み解きました。しかし、銃規制を行うべきではないと主張する保守派の人は、計算に強い人であっても、銃規制が犯罪率の低下に効果があったという正しい答えを導けませんでした。
同様に、犯罪率が「上昇」したデータを示したとき、保守派で計算に強い人は全員正解しましたが、リベラルで計算に強い人は、大半が答えを間違えました。計算に強い人でも、銃規制に賛成か反対かという、自分の政治的信条に基づいた解答をしてしまうのです。
また、あるリスクを現実的な脅威として実感させるには、統計やデータよりもシリアスで具体的なケースの方が有効です。たとえば新型ロナウイルスの危険性を伝えるには、死亡者数や致死率などのデータを並べるよりも、たった一人の有名人が感染することのほうが効果的です。イギリスのボリス・ジョンソン首相が一時、集中治療室に入ったと報じられましたが、これでCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)の危険性を実感した人が多いのではないでしょうか。一度も会ったことがないのに、一流スポーツ選手や有名シンガーが感染すると他人事には思えないのです。
我々の認知能力はバイアス<注>の影響をすぐに受けます。そうした限界を克服するために、データを理解する必要があるのです。調査や分析によって得られるデータから考え、自分自身の考えだけを信頼しないよう、常に心に留めておくべきです。
(*)
だからこそ、私たちは歴史の中で理性を保つための基準や制度を作ってきたのです。たとえば、科学の実験、言論や表現の自由、大学、裁判制度、民主的な議会などです。これらは、集団として合理的な判断を下せるようデザインされています。
インターネットや SNSにおいては自分が見たい情報しか、見えなくなりがちです。それを「フィルターバブル」と言います。我々は、自分と異なる意見を持つ人々に対して「彼らはフィルターバブルに入っている」と一蹴してしまいますが、私たち自身もフィルターバブルの中にいることには気付いていません。
自分が正しいと思わせてくれるストーリーや記事を読むのは楽しいものです。反対に、自分の見方に批判的な内容に触れることは不快です。しかし、健康に過ごすため、食べすぎずに運動を心がけるように、自分とは異なる意見も傾聴すべきです。
普段から、自分と意見の異なる人と積極的に意見交換した方が良いでしょう。
教育を受けたはずの科学者でさえ、この落とし穴の例外ではありません。私が「バイアス・バイアス」と呼ぶ誤謬(ごびゅう)があります。自分もバイアスに囚われているということを忘れ、自分とは意見の違う人こそがバイアスを持っていると思い込むことです。
あるリベラルな三人の社会科学者は「保守はリベラルよりも敵対的かつ攻撃的である」という論文を発表しました。しかし、実はデータの分析を誤っており、本当はリベラルの方が敵対的かつ攻撃的だということに気が付き、論文を取り下げたのです。
(スティーブン・ピンカー「認知バイアスが感染症対策を遅らせた」、大野和基[編]『コロナ後の世界』、文藝春秋、2020年より抜粋)
<注>バイアス:偏り。偏向(広辞苑第七版(岩波書店)より抜粋)
福岡大学2024
以下は,働きながら家族を介護する人に関する経済面の損失について述べた新聞記事である。このような経済面の損失を減らすための具体的な対策について考えるところを700字以内で述べてください。
経済産業省は17日までに,働きながら家族を介護する人「ビジネスケアラー」を巡り、労働生産性の低下などに伴う経済面の損失が、2030年に9兆円超に上るとの試算を公表した。25年に団塊の世代が全て75歳以上となり、介護が必要な高齢者が増える見込み。働きながら介護する家族への支援が社会の課題となっていることを裏付ける形となった。
経産省の試算によると、経済損失の内訳は「仕事との両立困難による労働生産性損失」が約7兆9千億円を占めた。「介護離職による労働損失」は約1兆円だった。経産省によると、20年に約262万人だったビジネスケアラーが,30年に約318万人へ膨らむ見通し。女性や高齢者の働く人が増え、介護と両立する人がさらに拡大する可能性もある。
東奧日報2023年4月18日「働きながら介護 9兆円損」より
順天堂大学2024
2015年のピュリツァー賞受賞作品の「人種統合教育」の写真を見て、2人の子どもの言葉として私たちへのメッセージを書きなさい。
特設の問題集に掲載しています
東京慈恵会医科大学2021年
以下の文章を200字程度でまとめ、その内容に対する自身の考えを800時程度で述べなさい。
太古の昔から、日本では言葉には言霊という、霊的な力があると信じられていました。言霊は、言葉のなかに満ちていて、呪術的な言葉を無造作に発してしまうと、それが現実のものになるとさえ思われていたのです。言葉も、じつは品詞によって力の発揮具合が違います。大きな力を発揮するのはやはり動きを表す言葉ですね。「頑張れ」「愛してるよ」「走れ」など。反対の言葉も想像できるでしょう? 「しね」とか言われればこたえますね。動きを表す言葉は、気をつけなければならないけれど、使い方はシンプルです。
けれど形容する言葉は、じつに使い方が難しいです。大きな容量のある言葉を大した覚悟もないときに使うと、マイナスの威力を発揮します。「今までに例のない」「いまだかつてない」「不退転の(決意で)」などなど、実際はそれほどのこともないのに大袈裟な言葉を使うと、実態との間に隙間ができるのです。そこにヒューヒュー風が吹き荒んで、虚しさを掻き立てる。言葉が、張子の虎のように内実のないものになってしまう。だから、効果がないばかりか、じつに逆効果なのです。マイナスです。言ってみれば、言霊を殺しているような状況です。こういう言葉遣いをするのは現代の政治家に多い。インパクトの強い言葉で聴衆の気を惹きつけないといけないという気持ちが強すぎるのでしょう。その結果、ほとんど真実でないことまで繰り出してくる羽目になってきた。私は、今の政権の大きな罪の一つは、こうやって、日本語の言霊の力を繰り返し繰り返し、削いできたことだと思っています。それが知らないうちに、国全体の「大地の力のようなもの」まで削いできた。母語の力が急速に失われてきた。この「大地の力のようなもの」 こそ、ほんとうのその国固有の「底力」だと思うのです。
(略)
自分の気持ちにふさわしい言葉を、丁寧に選ぶという作業は、地味でパッとしないことですが、それを続けることによってしか、もう、私たちの母語の大地を再び豊かにする道はないように思うのです。
これは一見、群れのこととは関係ないようですが、群れのコミュニケーションの大きな柱は、やはり言葉なのです。もし自分の気持ちと違う言葉を言ってしまった、と思ったら、できるだけ早く、そのことを相手に伝えた方がいい。
(略)
詰まるところ、私たちも群れの動物なのです。私たちは磁石がくっつくところを探すように、だれか尊敬できるリーダーを無意識に求めている。
強そうである。堂々としている。自信満々である。
そういう雰囲気に何となく惹かれていく人もいる。
群れで行勣するのがいいとかわるいとか言っていられない。地球上にこんなに人間があふれてしまったんですから。
出典・梨木香歩『ほんとうのリーダーのみつけかた』岩波書店より抜粋
昭和大学2023
日程1 AI技術は医療の分野でも積極的に取り入れられています。AIが医師の診断率を上回る結果を残している報告もあります。今後、AI技術を活用する世界で、医師としての役割はどのように変化していくとあなたは考えますか。簡単に述べなさい。(600字以内)
日程2 近年、医療の世界では「女性医師の支援に関する取り組み」や「働き方改革」について議論するときに「ダイバーシティ」という言葉がよく使われます。ダイバーシティの本来の意味は性別だけでなく「多様性亅や「多様である状態」を示し、年齢、信仰や思想信条、国籍や母語とする言語、出生地、学歴、身体的な機能…など、様々なものが挙げられます。
現在の日本の医療が抱える性別も含めたダイバーシティに関する問題点と、ダイバーシティを推進することにより、どのような事が期待できるのか意見を述べてください。(600字以内)
慶應義塾大学2023
設問 次の『ファクトフルネス』から抜粋された文章を読んで、「パターン化の行き過ぎ」について説明し、それを防止する方策を600字以内で述べよ。
「ひとつの例が全てに当てはまる」という思い込み
人間はいつも、何も考えずに物事をパターン化し、それをすべてに当てはめてしまうものだ。しかも無意識にやってしまう。偏見があるかどうかや、意識が高いかどうかは関係ない。人が生きていく上で、パターン化は欠かせない。それが思考の枠組みになる。どんな物事も、どんな状況も、すべてをまったく新しいものとしてとらえていたら、自分の周りの世界を言葉で伝えられなくなってしまう。
この本で紹介しているほかの思い込みと同じように、生活に役に立つはずのパターン化もまた、わたしたちの世界の見方を歪めてしまうことがある。実際にはまったく異なる物や、人や、国を、間違ってひとつのグループに入れてしまうのだ。そして、同じグループの物や人はすべて似通っていると思い込んでしまう。しかも、なにより残念なことに、ほんの少数の例や、ひとつだけの例外的な事柄に基づいてグループ全体の特徴を勝手に決めつけてしまう。
パターン化は、メディアの十八番でもある。パターン化がメディアにとって手っ取り早い情報伝達の手段になり、それが誤解を生み出している。今日の新聞を見ただけでも、そんな例がたくさんある。田舎暮らし、中流層、完璧な母親、ギャング団。
ある分類をたくさんの人が間違いだと気づくと、それはステレオタイプと呼ばれるようになる。たとえば、人種や性別で異なる人をひとくくりにまとめることがそうだ。こうしたステレオタイプは多くの深刻な問題を引き起こすが、問題はそれだけではない。間違ったパターン化は思考停止につながり、あらゆる物事への理解を妨げてしまう。
(中略)
ひとつの集団の例をほかの集団に当てはめていないかを振り返る
以前にわたしは、間違ったパターンを信じ込んで、それを勧めたことがある。当時はわたしもその考えを信じていたし、多くの人がそう信じ込んでいた。そのせいで、世界で6万の命が失われたと言われている。もし公衆衛生の専門家たちがこの思い込みをきちんと疑ってかかっていたら、救われた命があったはずだった。
1974年のある日の夕方、スウェーデンの小さな町のスーパーでパンを買っていたときのことだ。命の危険にさらされている赤ちゃんがわたしの目に飛び込んできた。その赤ちゃんはベビーカーに乗っていた。そこはパン棚の前の通路で、母親はベビーカーに背を向けて、一心にパンを選んでいる。普通の人なら気づかなかったかもしれないが、わたしは医学部を出たばかりで、すぐ危険に気がついた。わたしの頭の中で、警報ベルが鳴り響いた。その母親に駆け寄りたかったが、恐がらせてはいけないと思い、心を落ち着けた。早足でベビーカーまで歩いていき、あおむけになっていた赤ちゃんを持ち上げた。赤ちゃんのお腹を下にしてうつぶせでベビーカーに乗せた。赤ちゃんは目を覚まさなかった。
母親はパンを手に持ったままわたしのほうに向きなおり、いまにも飛びかからんばかりだった。自分が医師であることを母親に伝え、乳幼児突然死症候群について説明し、その頃ちょうど医学界で発表された親向けの注意を教えてあげた。赤ちゃんは吐いて窒息してしまう危険があるので、あおむけに寝かせてはいけない、という指針だ。でも、この赤ちゃんはもう大丈夫。母親はヒヤリとして、同時に安心したのだろう。少しよろよろしながら買い物を続けていた。わたしは鼻高々に自分の買い物をすませた。自分がとんでもない間違いをしでかしていたことにも気づかずに。
第二次世界大戦と朝鮮戦争を通して、戦場から担架で運ばれてくる兵士の中で、あおむけよりうつぶせのほうが生存確率が高いことに、医師や看護師は気づいた。あおむけに寝ていると、自分の吐しゃ物で窒息することが多かったのだ。うつぶせになっていると吐しゃ物が口の外に出て、気道はふさがれない。この発見によって、兵士だけではなく数百万もの命が救われた。それ以来、うつぶせの「回復体位」が世界標準になり、地球上どこでも応急処置の講座では「うつぶせ寝」を教えるようになった、(2015年のネパール地震で人命救助にたずさわった救急隊員も全員このことを学んだ)。
しかし、この新たな発見が、当てはめてはいけないケースにまで当てはめられてしまった。うつぶせ寝の効果が証明されたことから、1960年代にはこれまでとは正反対の慣習が勧められるようになった。昔からの慣わしとは違って、赤ちゃんはうつぶせに寝かせたほうがいい、とされるようになったのだ。赤ちゃんも救命が必要な患者も、いっしょくたに考えられてしまったのだった。
そんなふうに「いっしょくた」にしてはいけないものをひとくくりにしていることに、わたしたちはなかなか気づけない。理屈そのものは正しいように思えるからだ。一見筋の通った理屈が善意と結びつくと、パターン化の誤りに気づくのはほぼ不可能になる。赤ちゃんの突然死は減るどころか増えていることをデータが示していても、その原因がうつぶせ寝にあるかもしれないことに誰も気づかなかった。
初めてそれを指摘したのは香港の小児科医のグループで、1985年になってからだ。その指摘があったあとも、ヨーロッパの医師はあまり気にしていなかった。スウェーデンの医学界が間違いを認めて方針を変えたのは、それから7年も経ってからだった。意識のない兵士は、あおむけに寝かされると自分の吐しゃ物で窒息してしまう。だが、意識のない兵士と違って、寝ている赤ちゃんは反射神経がきちんと働いて、あおむけでも横を向いて吐き出せる。しかし、筋力がまだ十分に発達していない赤ちゃんの場合は、うつぶせになっていると、自力で重い頭を反り返らせて気道を確保することができない(とはいえ、うつぶせがあおむけよりも危険な理由がすべて解明されているわけではない)。
あのパン売り場にいた母親に、わたしが赤ちゃんを危険にさらしていたことがわからなくても無理はない。もし、母親が証拠を見せてくれと迫っていたら? そしたらわたしは戦場の兵士の例を持ち出しただろう。それでも、「でも先生、それって本当に赤ちゃんにも当てはまるんですか? 意識のない兵士と眠ってる赤ちゃんは違うんじゃないですか?」と詰め寄られたら? そう言われたとしても、自分が深く考え直していたとは思えない。
10年以上ものあいだ、わたしはこの手で、たくさんの赤ちゃんをあおむけからうつぶせに寝かせ替えてしまった。もちろん窒息を防ぎ、命を救おうとしての行動だ。ヨーロッパとアメリカの多くの医師や親たちもそうだった。しかし、うつぶせ寝の推奨が取り消されたのは、香港での研究が発表されてから18ヵ月後だ。行き過ぎたパターン化から、何万人という赤ちゃんが命を落とした。すでに証拠が明らかになったあとの十数カ月のあいだにも、命が失われてしまった。パターン化の行き過ぎが、善意の陰に隠れて見えなくなってしまったのだ。
わたしにできるのは、あのパン売り場にいた赤ちゃんが元気でいることを願うくらいだ。現代に起きた深刻な公衆衛生の過ちから、人々が学んでくれることを願うしかない。同じ例が当てはまらない集団をいっしょくたにしないよう、わたしたちはできる限り気を配らなければならない。そして一見筋が通っているように見える、隠れたパターン化の間違いを見つけ出すよう努めなければならない。そんな間違いを見つけるのは難しい。それでも、新しい証拠が出てきたら、心を開いて刷り込まれた思い込みを疑い、見直し、自分が間違っていたらそれを認める勇気を持たなければならない。
出典・ハンス・ロリングス、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロランド著・上杉周作、関美和訳『FACTFULNESS ファクトフルネス』日経BP 第6章「パターン化本能」より抜粋
福井大学2024
蚊は人間にとって危険な存在になり得るが、その一方で,蚊のほうも,ただのんきに暮らしているわけではない。丸めた新聞紙、もしくは手が素早く一振りされるだけで。蚊は叩き潰されて死んでしまう。
(中略)
メスの蚊にとって最大の危険は、(中略)血を吸うことそのものだ。卵を産むには血は欠かせないが、血を吸われるほうの動物にとってみれば嬉しいわけはなく,血を吸っている般などつぶしてしまおうとするだろう。敷が夜に食事をするのを好むのはこのためだ――獲物たちは,休んでいるか眠っているかのどちらかだろうから。それにしても,血の「提供者」たちはいつ目を覚ますとも限らないし、危険なことに変わりはない。面倒を確実に避けるため、メスはできるだけ大量の血をできるだけ短時間に吸う。
(中略)
問題は、人間その他の哺乳類は体が温かく,一般的に摂氏34〜40度ほどということだ。このため,私たちの血を吸うと,蚊の体内に血と一緒に熱も急激に入っていく。これは大変だ。というのも、メスの蚊は体温が上がりすぎて産卵できなくなる恐れが出てくるが、蚊の寿命はあまりに短いので、時間を浪費できないからだ。血で体が膨れて温まったメスの蚊には、自分自身が血を吸い取られる危険性もある。ほかのメスが口器を突き刺して,今吸ったばかりの血を奪おうとするかもしれないのだから。
(中略)
生物学者たちは、メスの蚊がお尻から、血を含んだ小さな水滴を落としていることを,1930年代から知っていた。だが,蚊が血を出すときに,敷から放射される赤外線をサーモグラフィーカメラで測定したのは,ラッツァーリ"とラオンデレ"が初めてだった。その結果,熱い部分が赤、温かい部分が黄色。そしてさらに低温になるにつれ縁,青と色分けされた鮮やかな「熱マップ」が得られた。(中略)5秒ごとに撮影されたこれらの画像は,摂氏28〜37度に保たれた手からメスのステフェンス・ハマダラカリが血を吸う前。吸っている最中,そして吸い終わったあとの全身の正確な温度を図示している。
1枚目の36度の手のマップでは,蚊の頭部は明るい赤色になっており、手と同じぐらい熱いことがわかる。蚊の体は34度と,それよりは温度が低い(オレンジ色表示)が、それでも蚊にとって快適な25度(青色表示)よりはまだまだかなり高い。血を吸い始めて約5秒後,球状になった液体―血と尿が半々に混ざったもの―がメスのお尻から出てくる。この小さな珠,出てきたときは31度で,熱マップでは緑色に表示されている。続く25秒間で球は大きくなり、26度まで冷えて,熱マップでは青色になる。球はその後,離れ落ちる。少しもひるまず,蚊はすぐに次の球をひねり出す。
球がぶら下がっている25秒間の熱マップの変化から、蚊の体温(球の温度ではなく)は約3度下がって、約31度になることがわかる。熱の移動は、球が形成された数秒以内に始まる。血を吸い終わって口器を獲物から抜いたとき,蚊の体温はケージ内の気温と同じ23度まで下がる。
メスの蚊の体温が上昇するのは、とまっている手からの熱伝導ではなく,摂取した血のせいだということを確かめるために、ラッツァーリとラオンデレはオスの蚊に注目した。その実験によって,手にとまったオスの敷の体温は室温のままだとわかり、メメスの体温が上がるのは血を吸ったせいだということが証明された。
メスの蚊が血を吸うあいだ。蚊の体温をマップで観察することにより,ラッツァーリとラオンデレは、メスの蚊が尿と血の混ざった球を排出するのは、体温を下げ,熱による負荷がかからないようにするためだと証明した。私たちも、風呂から出たばかりで肌に水滴がついているときには寒く感じるが、それと同じで、お尻にぶらさがった球から水分を蒸発させると,蚊も体温が下がるわけだ。蚊のメスは気化冷却を利用している。人間が汗をかくときと同じだ。おまけに,蚊のメスの体のなかには、ほかの部分よりも高温になっている部分があって,蚊は高温部から低温部へと熱が流れやすくなるような温度勾配を作っているのである。
(中略)
すべての種類の蚊が血の混じった水滴を排出するわけではない。ラッツァーリとラオンデレは,黄熱病,デング熱,ジカ熱を媒介するネッタイシマカ+には,血を排出しているらしき様子はまったくないことを確認した。この種の蚊は,食事しながら体を冷やすのではなく。「熱ショックタンパク質」のと呼ばれる。過熱したどんな分子も修復できる分子を形成するのである。
(「動物たちのすごいワザを物理で解く 花の電場をとらえるハチから,しっぽが秘密兵器のリスまで」マティン・ドラーニ,リズ・カローガー著 吉田三知世訳 発行 インターシフト発売 合同出版 2018年より抜粋)
1)ラッツァーリ(クラウディオ・ラッツァーリ):フランスの生物学者
2)ラオンデレ(クロエ・ラオンデレ):フランスの生物学者
3)ステフェンス・ハマダラカ:インド,東アジア南部,中東でよくみられるマラリアを媒介
する蚊
4)ネッタイシマカ:熱帯・亜熱带地域に分布する蚊
5)熱ショックタンパク質:熱などの環境ストレスから細胞を保護するタンパク質
問1 下線部分について、メスの敷は気化熱を利用して体温を下げているが、なぜ尿だけでなく血も排出するのか,あなたの考える仮説を100字以内で述べなさい。
問2 間1で述べた仮説を検証する方法,および予想される結果について,500字以内であなたの考えを述べなさい。