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小テスト 解答例

<17>哲学と医学・医療

(1)有効な批判をしてくれる人だけが、哲学上の友人なので、真の友となるためには自分も相手に有効な批判を返す必要がある。

別解:哲学の議論は、自説の難点を相手に指摘してもらうことのみを目的とする。このように批判し合える相手こそが哲学上の友人である。

(2)すでに考えられてしまったこと(思想)を打ち捨て、ものを考え続けるのが哲学なのだから、どんな批判が有効か予め決める基準は存在せず、議論の過程で見出すしかない。

(3)哲学の問いはみなが公共的に了解し、それを基本にものを考えようとする様々な基本概念自体を自分の納得のために問い直すので、そこを問うことは公共的とはなりえない。

(4) ②

(5)哲学は何も前提とせず、結論ともせず、問いかけ、考え続ける営みである。問い続け、考え続けるということは、それ自体としてなんの役にも立たない。だが結論を求めず、問いを重ね続けることによって、常識や思想の底上げ状態が見えてくる。見えたからといって、そこを問うこと以外何ができるわけではないが、見えること、問うことが大切なのだと著者は考えているのだろう。学問、科学は本来そのようなものだと思う。

この世界を、人間の苦しみを深く理解したい。もちろん理解することだけではなく、現実に何か役に立ちたいとも思う。医療はそのために医学に結論を求める。この両面での欲求を医学を学ぶ中で満たしていきたい。医学は人間の心身両面を社会、環境、歴史の中で捉え、その苦しみの全容を求める学問である。だが医療のために一定の結論は必要だ。その結論は上げ底かもしれず、問いは終わりなく続くと思っている。

<テーマ型出題>

 

横浜市立大学:フールプルーフ

 病院や医療現場での薬剤の取り違えによる被害は少なくない。パッケージの形状や薬品名が類似していると忙しい時に取り違えてしまう危険がある。そのため類似性をなくす努力はしているようだが、使い易く密閉したパッケージの形はやはり限られるはずだ。薬品名については3000種類近くあるすべてを記憶し、見分けるのは難しいし、どうしても類似のものは出てくるだろう。そこで、この薬剤の薬局や置き場からの出入の管理と投与時の確認をAIによって行うようにしたらどうだろうか。

 まず、患者の診察カードもしくはマイナ保険証を受診時に院内のデジタル情報システムとつなぎ、患者のバーコードかQRコードを作成する。そして医師が投与を選択した薬とその量と1日の回数を患者のカルテに打ち込むと自動的それが薬局の薬剤在庫データにつながる。そこにAIを介在させ、出庫を自動的行えるようなキャビネットと出庫窓口を作り、患者名を打ち込むかバー(QR)コードをかざすと取り出せるようにする。さらに、その薬を患者に投与する際に、その場でパソコンなどの端末に薬の映像を映し、患者カルテに打ち込んだ薬剤名と1日の投与回数や量に違いはないかをAIに確認させる。1日の投与回数を外れるようなら、それを知らせるようにする。点滴での事故が生命の危険につながりやすいが、点滴管理もこのように行えばよいのではないか。

 このアイディアは先日、新聞で読んだ「医療DX」についての記事から思いついた。その記事によれば横須賀共済病院では薬剤師が患者に出す数種類の薬をこれまでは患者の電子カルテに記載するのに手で打ち込んでいたという。だがそれは時間もかかるし、間違いが生じる可能性もある。それをそれぞれにおかれた薬にタブレットをかざしてAIにより自動的に識別して電子カルテに記入できるようにしたという。さらに、患者がマイナ保険証を医師に提示して、同意のもとで他の医療機関で処方されている薬を確認できれば、多剤服用による健康被害を減らせるという。もっとも、これは患者がお薬手帳を必ず持っていけば解消されることはあるが。

いずれにしても、人の記憶と目視での確認よりは、的確な投与薬剤をその場でAIが画像確認をできるなら、それが一番確実だと思う。

浜松医科大学:人間関係をコスパで選ぶ

 たしかに、自分にとって「よい要素」をもつ人と付き合いたいと思うのは当たり前だろう。自分に悪い影響しか与えない相手なら付き合いたくはない。しかし、何がよい要素で、何が悪い要素なのかはだれが決めるのだろうか。それを自分の持つ価値観や尺度だけで決めることが「コスパで選ぶ」ということではないか。

 このように定義した場合、その利点はストレスの少ない安定した人間関係を作れることだろう。相手の言動が自分が「よい」に合致していたり、合致はしてはいないが自分にはない「よい」ものを与えてくれそうな相手であれば関係を尊重し、持続させようと努力する。しかし、自分の尺度で「よい」と思えることの範囲だけでものを考えようとすれば、その視野はかなり狭くなる。人間関係の面白さは、自分の価値観や感覚から見て全く理解しえない人と出会い、そういう考え方や感じ方もあるのだと気づかされることではないか。コスパで関係を選べば、狭い視野で自分に固執する人間に自分を形成していくことになる。広く、多様な視野に目の開かれた人間にはなれないということだ。それが欠点である。

 もちろん、自分にとって「よい要素」を持つ人と関係をもちたいと思うことは悪くない。だが社会で生きていく上では、コスパを考えてそれだけに関係を限定することは事実上無理だ。人前で自分を公然と批判し、繰り返し攻撃する相手とは付き合いたくはない。だが、陰で批判され、自分を振り返る機会を与えてくれない相手より、反論し、ぶつかり合う中で、自分を客観的に見ることができる方が気持ちはすっきりする。また、まったく価値観や考え方の違う相手とじっくり議論できれば、自分の考え方はより深まる。自分にとって満足を与えるか、良い要素となるかを基準とせず、率直にものを言い合えて、お互いに相手を全否定しないような人間関係が望ましいと思う。

杏林大学:信じる

 「信じる」とは、何に対してなのか。その対象によって意味は異なる。たとえば「ある情報を信じる」という時、その情報源や示されているデータやその発信元によって判断は異なってくる。「宗教を信じる」のは、その教義や教祖への依存だろう。それは真偽を問わず全面的に認識や判断を委ねてしまうということではないか。個々人でその心情は違うのかもしれないが、私は宗教を信じていないので十分な判断はできない。

 このように対象によって「信じる」の意味は異なるが、ここでは「人間を信じる」ということに限定して考えたい。信頼する家族や友人をどこまで信じるかと問われたなら、「できる限り信じようと思う」と答えるだろう。人間の内面での考えや感情は言動や表情などからある程度推測はできるが、その真偽は分からない。その人は約束を守るか、言動に嘘はないか、疑えばきりがない。約束をしたとしてもさまざまな事情で守り切れないことはある。守らなければそれは嘘になるが、守ろうと努力したのなら嘘ではない。いちいち疑っていたら人間関係は作れない。ともかくいったんは信じることだと思う。そして、信じたことが裏切られたと感じたら、しっかり理由を聞けばよい。相手も私を信じてくれているなら話してくれるはずだ。

 特に、医療などの現場では患者を信じなければ診療は始まらない。患者の感じる症状と検査データや診断が異なった時、患者の言うことを疑っていったら診療にはならない。もしかしたら実際にその症状がないのに、患者は訴えているのかもしれない。「この訴えは信じられない」で診療を終えて、重大な見逃しをしていたら取り返しはつかない。身体データに表れない心理的要因や環境要因があるかもしれない。医療者が自分の経験・知識だけを信じ、患者を信じなければ患者のもつ本当の苦しみに迫ることはできない。

日本医科大学:医療現場における個性

 医師に個性的な外見は必要ないと思う。基本的には患者が不快に感じず、安心して診療を受けられるような外見がよいと思う。だが、人によってどのような外見を好み、で安心できるのかは多少差があるともう。清潔な白衣なら安心できるという人もいれば、何か権威的で親しみが持てないと思う人もいる。私のかかりつけ医は白衣を羽織っているが、だいたい前ボタンは外してスヌーピーなどのキャラ物のTシャツとジーンズである。小太りでちょっと長めのヘアーで愛嬌があって私は好きだ。たぶん彼は個性を出しているつもりはなく、仕事着を特別に選ぶことを考えていないのだと思う。

 「個性的な外見を出すべきか」と問われれば必要ないと思うが、不潔感のあるものや目のやり場に困るような非常識なものでなければ、自分の好みは出してよいと思う。無理に自分を押し殺して白衣に身を包むより、自然でリラックスできるものをまとっていればよい。こちらもリラックスできる。どんな外見であっても、その人のもつ雰囲気や対応、態度のほうが大切である。白衣を着ていても圧迫感を感じさせず、親しみの持てる対応であれば問題はないし、ちょっと個性が際立っていても不快感を与えず信頼してもよさそうな雰囲気があればよい。だがどんな外見、どんな対応よりも、自分の仕事に誠実で患者の話をよく聴き、診断や診療を間違えないことが全てであろう。

国際医療福祉大学:医師の働き方改革

 現状の勤務医の労働環境は、他の職業と比べて著しく悪いようだ。残業や休日勤務の長さ、当直などでの長時間労働、正当な賃金保証のない宿直など、過労死水準を超えた労働環境が報道されている。こうした過労死につながるような状態で診療を続け、ゆとりのない中での仕事では、いくら気を付けていてもミスや過誤が起こる危険は高まる。この現状に対して「働き方改革」が実施されれば、医師の過労死は防げるし、ワークライフバランスもよくなるだけでなく、医療の安全性の向上にもつながる利点があるだろう。

 だが過労死が生じる危険のある休日・時間外労働は原則年960時間までとされるというが、地域医療や研修で必要な場合は過労死の危険がある上限を超えて残業や休日勤務が認められている。また様々な名目で実質的に働いた時間を勤務時間に数えないようなこともあるという。その背景には、現在の勤務医の数で「改革」を進めると、現場での人員不足が生じ医療需要を満たせなくなるということがあるからだろう。

 残業や休日でのオンコールによる出勤を減らすために、複数主治医性を取る病院も出てきているが、同じ医師数で行えば結局出勤している医師の受け持ち患者は倍増するのではないか。これでは医療安全を確実に確保できるとはいえない。病院の勤務医の数を増やすことなしに長時間労働を解消しようとすれば、患者の要求に応える医療提供体制が崩れてしまうという懸念は大きくなるはずだ。

東海大学:“普通“とはなにか

 この手紙で言われている「普通」とは、社会において標準化された健常性とそれに合わせた社会環境のことだ。社会的には自閉症や発達障がいは「普通」ではないと見なされる。しかし、心身における個性ゆえに社会環境や人間関係での適応困難は誰でも多少は持っている。その度合いがどのくらいになると「障がい」とされ、「普通」とは違うとされるのか。視覚において「近視」は普通で「弱視」は普通ではないのだろうか。「標準化された健常性」と書いたが、それはどのような人々の標準だろうか。その線引きは定かではない。

 結局、「普通」とは「普通でない人」と名指された人以外の人たちである。「普通でない」と名指されるのは、すでに出来上がっている社会的慣習や生活環境への適応が難しい人たちである。つまり、社会が制度的に「普通でない人」を作り出しているのだ。車椅子歩行がどこでもできるようになればそれは普通である。コミュニケーションが十分に取れなくても、相手の世界を尊重できれば自閉症も普通である。だが、自閉症を「普通」から排除してしまう社会の中で生きることはチャレンジングなのである。
 

以下はAIが生成したサンプル答案です。一次生成データなので、一部を除いて課題があります。課題とは一般的で抽象的な記述が目立つこと、また、論点過多なことです。クリティカルに読んで自身の振り返りとしてください。

東京慈恵会医科大学:言霊

 言葉には力があるとされる「言霊」の概念は、私たちがどのように言葉を使い、どのようにそれが社会に影響を与えるかを考える上で非常に重要です。言葉は単なるコミュニケーションの手段ではなく、私たちの思考や感情を反映し、時に社会全体にまで影響を与える力を持っています。特に、動きを表す言葉には強いエネルギーが宿り、発せられる言葉によって実際に行動が引き起こされることもあります。逆に、形容詞や大袈裟な表現を使うことで、言葉と実態との間に乖離が生まれ、その結果、言葉の力が削がれることになります。この点で、現代の政治家たちが使う誇張的な言葉や誤解を招く表現は、言霊を殺し、社会全体の基盤を弱体化させてしまっているといえます。

 日本語における言葉選びは、単に相手に伝えるための道具にとどまらず、文化的な背景や感情の共有を深める手段でもあります。たとえば、日常的に使う「ありがとう」という言葉一つとっても、その裏には感謝の気持ちが込められており、相手との絆を強める役割を果たします。しかし、軽々しく使われるとその言葉の価値が薄れ、逆に相手に対して不誠実に感じさせることもあります。このように、言葉を丁寧に選び、意図を正確に伝えることがいかに重要であるかを再認識させられます。

 また、現代社会における言葉の使い方は、群れの中でのコミュニケーションとも密接に関連しています。私たちは無意識に、他者の言葉や行動に引き寄せられ、集団の中での位置付けを求めてしまいます。特にリーダーに対しては、その強さや堂々とした態度に魅力を感じることが多いですが、それが真実に基づかない言葉であった場合、そのリーダーの信頼性は損なわれ、集団全体の力を削ぐことになります。言葉は、ただ情報を伝えるだけでなく、集団の力を形成する基盤でもあるからこそ、その使い方に慎重であるべきです。

 個人としても、言葉を軽率に使わず、自分の気持ちに合った言葉を選び、伝える努力が求められます。特に誤った言葉を使ってしまったと感じた時には、すぐに訂正し、相手に誠実に伝えることが大切です。これによって、誤解を解消し、より良いコミュニケーションを築くことができます。そして、言葉を慎重に選ぶことが、結果として社会全体の底力を強化し、より豊かな社会を作るために貢献するのだと考えます。

 現代の言葉の使い方において、誠実さと慎重さを欠いた表現が蔓延していることは問題であり、私たちが再び「言霊」の力を取り戻すためには、日常的な言葉選びに対する意識を高めることが必要です。言葉は私たちの思考を形作り、他者との絆を深め、集団の力を育てる重要なツールであるため、その使い方を意識的に再構築していくべきだと感じます。

慶應義塾大学:パターン化の行き過ぎ

 「パターン化の行き過ぎ」とは、人間が無意識のうちに物事を単純化し、類似する事象やグループの特徴を過度に一般化して他の事例にも当てはめてしまう思考の誤りである。この過剰なパターン化が誤解や偏見を生み出し、現実の複雑さを無視する結果を招くことがある。『ファクトフルネス』における赤ちゃんの寝かせ方に関する誤った医療方針の例はその一例であり、戦場での経験をもとに赤ちゃんにもうつぶせ寝を推奨した結果、命を落とす事態が発生した。このように、パターン化の行き過ぎが善意の行動を致命的なものにする場合がある。

 この誤ったパターン化を防ぐためには、まず「一つの例がすべてに当てはまる」といった思い込みを避けることが重要である。具体的には、物事を一面的に見るのではなく、異なる視点から検討することが求められる。赤ちゃんの寝かせ方に関しても、新しい証拠が出た際には過去の知識に固執せず、最新の研究結果を反映させることが必要である。

 次に、疑問を持つ姿勢を常に保つことが重要である。自分の信じているパターンが他のケースにも適用できるかどうかを慎重に考え、新しい証拠が出てきた場合にはそれを受け入れて、過去の思い込みを見直すことが求められる。

 また、データと証拠に基づいた意思決定を行うことも大切である。直感や経験だけでなく、客観的なデータを重視し、科学的根拠に基づいて判断を下すことで、誤ったパターンを排除し、正確な意思決定ができるようになる。

 最後に、批判的思考を促進する教育が重要である。教育の場で物事を多面的に捉え、仮説を立てて証拠に基づき検証する姿勢を身につけることで、パターン化の行き過ぎを防ぐことができる。

 以上のように、パターン化の行き過ぎを防ぐためには柔軟で批判的な思考を持ち、新しい情報や証拠に対して開かれた態度を取ることが必要である。

昭和大学

 日程1:AI技術と医師の役割

 AI技術の進化により、医療分野でも診断支援や治療計画作成などの業務にAIが積極的に取り入れられている。AIは膨大なデータを迅速に分析し、病気の早期発見や診断精度の向上に貢献する可能性がある。特に、画像診断や遺伝子解析などでAIが人間の医師を上回る診断能力を示す報告もあり、医療の効率化や質の向上に寄与している。

 今後、AI技術が医療にますます組み込まれる中で、医師の役割は大きく変化するだろう。まず、医師はAIが提供する診断結果や治療提案を理解し、患者に最適な治療を選択するための判断力を強化する必要がある。AIが提供する情報をもとに、患者とのコミュニケーションを円滑に行い、患者に適切なアドバイスをする役割が一層重要になるだろう。

 さらに、AIは医師の負担を軽減し、事務的な業務やデータ処理の効率化を助けるため、医師はより多くの時間を患者との対話や治療に集中できるようになる。これにより、医師は患者の心身のケアや、疾病予防、生活指導など、AIでは代替できない人間らしい役割に注力できるようになると考えられる。

 一方で、AIによる判断が誤っていた場合や、データに偏りがあった場合にどのように対処するかという倫理的な問題も生じる。医師はAIの結果を鵜呑みにせず、批判的に分析する力が求められる。そのため、医師はAIと連携しながらも、人間としての感性や倫理観を保ち続ける必要がある。

 総じて、AI技術の進展により、医師の役割は「診断の正確性」を追求するだけでなく、「患者との信頼関係の構築」や「人間的なケア」に重きを置く方向にシフトしていくと考える。医師はAIを道具として活用し、その結果を最大限に生かすための判断とコミュニケーション能力を高めることが求められる。

日程2:日本の医療におけるダイバーシティ

 近年、医療分野では「ダイバーシティ」の重要性が増しており、性別、年齢、信仰、国籍などの多様性が注目されている。特に日本では女性医師の支援や働き方改革が進められており、ダイバーシティの推進が医療の質向上に寄与することが期待されている。しかし、現状では、依然として男性医師が多数を占め、女性医師のキャリア形成における障壁が存在している。例えば、出産や育児を理由に職場を離れる女性医師が多く、また、女性の昇進の機会が限られているという問題が指摘されている。

 このような性別に基づくダイバーシティに関する問題は、医療現場での多様な視点の欠如を生む可能性がある。例えば、女性患者の視点やニーズを反映した医療が提供されにくい場合があり、女性医師が増えることで、より患者に寄り添った治療が可能になると考えられる。さらに、ダイバーシティを推進することで、医療従事者の働きやすい環境が整い、結果として医療サービスの質が向上するだろう。

 ダイバーシティの推進は、性別だけでなく、年齢やバックグラウンドの異なる医療従事者を受け入れることで、医療チームの創造性や柔軟性が高まり、複雑な患者ニーズに対応する力が強化される。異なる視点を持つ医療従事者が集まることで、医療の問題解決力が向上し、より多角的なアプローチが可能となる。

 また、ダイバーシティが進むことで、若手医師や地方の医師、外国籍の医師など、従来は社会的に疎外されていた医療従事者が活躍できる場が広がる。これにより、医療現場の人材不足が解消され、患者の治療の質が向上することが期待される。

 

ダイバーシティを進めることで、医療現場は多様な価値観を受け入れ、より柔軟で多面的なサービスを提供できるようになる。性別や国籍、年齢に関係なく、すべての医療従事者が平等に活躍できる環境を整えることが、今後の医療の質の向上に不可欠であると考える。

福井大学:メスの蚊が血を排出する理由

 問1 メスの蚊が血を排出する理由は、体内の温度上昇を防ぐためであると考えます。血液と尿が混ざった球を排出することにより、蚊は気化冷却を活用し、体内の熱を効率的に放出することができるからです。尿単独では冷却効果が弱いため、血液と一緒に排出することでより効果的に体温を下げられると考えます。

問2 仮説を検証する方法としては、メスの蚊が血を排出する際の温度変化を詳細に測定する実験が考えられます。具体的には、血液と尿が混ざった球が排出される直前およびその後の蚊の体温をサーモグラフィーを用いて計測し、血液と尿が排出される前後で体温にどのような変化が見られるかを調べます。さらに、血液を排出した場合と尿だけを排出した場合を比較し、温度低下の効果に差があるかを確認します。

 予想される結果として、血液と尿を混ぜた球の排出が、体温を効果的に下げる役割を果たしていることが確認できると考えます。血液だけを排出した場合、尿のみを排出する場合よりも体温低下が顕著であり、血液の存在が冷却効果を高めていると考えられます。この実験により、蚊が血を排出する理由として、温度調節が重要な役割を果たしていることが証明されると予想します。


<14>医療制度改革

設問1
 日本はこれまで全ての人に必要な医療が提供され、老後の生活が保障されるような社会を追求してきた。今後もこの方向をイエスとしたい。しかし、それには経済環境が良好で医療費や介護・年金金の財源が安定的に供給されるという経済基盤が必要。だが、現在は経済状況も安定せず、少子高齢化によって安定的財源の確保が難しくなっている。患者窓口負担をこれ以上増やすのも難しく、明瞭にイエスと言い切れない

 

設問2

 日本では国民はみな公的保険に加入することが義務づけられ、医療費は原則保険から給付される国民皆保険制度である。だが財源不足により患者の窓口負担が増え、赤字の保険には公費が投入されている。医療の価格は国が定めた診療報酬表による公定価格だが自由診療も認められ、利益優先の医療も増えている。一方、医師はどこでも自由に診療所を開業できる自由開業制によっている。そのために医療供給において地域格差も生じ、都市部の開業規制なども考えられ始めている。そして、患者はフリーアクセスであり、どの医療機関でも自由に受診できる。そのため軽症者の初診や慢性疾患の再診患者が機能の高い病院を受診し、病院の機能低下が生じている。

設問3

 人口高齢化は疾病構造を急性疾患中心から慢性疾患中心に変化させている。そのためこれまで病院中心型であった地域医療を診療所のかかりつけ医が病状の軽重を見分けて病院に紹介する「病診連携」型に切り替わりつつある。これが医療改革の第一歩なのだろう。だが、COVID‐19の波の中で、この連携が不十分なため患者を受け入れきれず、自宅待機で医療にアクセスできないままに亡くなった人が多く出た。かかりつけ医の役割を明確にした制度整備が必要だろう。また、地域による医療格差や勤務医の長時間労働是正のため医療供給の難しいところが出てきている。日本では病床当たりの医師数が少なすぎる。その拡充なしにはどんな改革も難しいと思う

<16>国際医療支援

問1

 人々の健康と病気の捉え方とそれに対する行動は,その人々がその中で育ち習得した文化の中で物事をどう理解するかという世界観と密接に関係する。世界観を形作るのは文化以外にも個人的要素、教育的要素、社会・経済的要素、環境的要素があげられる。これらの文化の置かれている背景の中で読み解くことが必要となる。さらに文化は常に周りの文化集団との交流を通して、あるいは国内あるいは国際情勢などの政治・経済的状況の中で変化し続けるダイナミックなものである。そして他の文化との接触や交流により在来の文化はレンズに影響をうける。このような影響は一方通行ではなく,彼らを受け入れる社会の人々の文化のレンズにも影響を与える。

問2

 問題解決のためには医療支援を行う地域の文化や歴史、そして現状の社会的課題などについて幅広い理解が必要である。しかし、当該地域で長く暮らしていないものが、そうした人々の思いを広く理解することは不可能である。

 長期的な医療支援の場合には、その目的は当該地域の医療資源が充実していくための手助けである。医療者の育成や医療機関の整備、それを支える経済・政治システムなどについて、現地の人々を主体として求められる援助を行っていく。あくまで現地の人々が自分たちの医療を作っていくのであり、たとえ非合理的あるいは非効率的に見えても、その根拠をよく聞き話し合いながら支援を行う必要がある。

 しかし緊急支援などの場合は現地の体制が崩壊した状態が多いだろうし、直面する課題に効率的に対処していくことが優先される。その場合には必ず当該地域の自治体の長など社会的リーダーと多少でも現代の医療に通じている人材に案内を請う必要がある。戦地や難民キャンプでもまとめ役はいるはずである。必ずその地の文化に根付いた案内者を求めることだと思う。​

<参考問題>疑似科学

問1 

科学の基本は「正しい」ことではなく、それを「疑う」ことにある。ところが、三種の疑似科学は自らの「正しさ」を説明することに執心する。疑似科学の第一種は「人間の心理(欲望)」につけ込み、第二種は「科学的装い」をもつことで、第三種は「結論」を下してシロかクロかの決着をつけることで、それぞれ「正しさ」を説明する。共通しているのは、「正しさ」を信じて「疑う」ことをしない点にある。(186字) 

 

問2 

批判とは特定の物事の意味・価値を否定することである。多くの場合、批判は対象に替わる新しい意味・価値を提示しない。そのように「本来あるべき姿」を提示せず、自分で探そうとしない姿勢では、人間や社会は混乱するばかりで、直面する課題は放置される。筆者はそれを問題視している。疑似科学を避けるために科学は「疑う」ことを大切にすべきだが、同時にそれぞれが考える「正しさ」を提示することも忘れてはならない。(196字) 

 

問3 

疑似科学に嵌らないために「疑う」ことは大切だ。ただ、その難しさを前提にしないと、単なる「べき」論に終始してしまい、いつまでたっても「疑う」姿勢は身につかない。 

「疑う」ことの難しさとは、その対象となる疑似科学に嵌り込み、「正しさ」を信じて疑わない人たちがいるからだ。私があることを「疑う」ことは、その人たちの信念や存在すらも否定することになる。彼・彼女らにとって、それは「自分」を失うことにつながり、不快であり恐怖ですらあるだろう。だから、私が「疑う」ことに全力で反発するはずだ。それが私の考える難しさである。 

こうした難しさと向き合うために、私は「強く」なければならない。ここでいう「強さ」とは、相手を説き伏せる「強さ」でもあるが、同時に相手を受容する「強さ」でもなければならない。前者には、科学的に物事を理解し、考える「能力」が必要であることは言うまでもない。ただ、下線部「本来あるべき姿」のような自らの理想や信念をもつことも大切だ。一方、後者に必要になるのは、相手の話をよく聴く粘り強さやその真意をつかもうとする人間性である。このように自他の両面で「強く」なることが「疑う」姿勢を身につける。(497字) 

 

 

<6>科学否定論者への対応策

 

解答例

問1:科学の根拠となる反証可能性を使い、どういった証拠があったら自分の間違いを認めるのか問いかける。「そんな証拠はない」と応答するなら間違う可能性が最初からありえない仮説を信じていることになる。「こういう証拠があれば,間違いを認めよう」と応答してくるならその証拠を突き付ける。これが理詰めの対応だ。だが、この問いにまともに答えなかったり、むきになっていることが疑わしい証拠と上げ足を取られる可能性が高い。

問2:自分と親しい非専門家への意見への依存,トラウマによる思い込み,特定のコミュニティへの帰属意識、SNS上の閉鎖的な交流などは私たちにも経験はある。だがこれが行き過ぎると科学否定論や陰謀論に結びつくという。何らかのきっかけで芽生えた科学への疑問がこうしたものへの過剰な信頼につながる危険が常にある。

問3:それぞれの考え方を広く社会に考えてもらう方向で説得する。仲間内で陰謀論を語るのでなくデータをそろえて論証していこう。科学は反証可能性を持ち絶対正しいものではない。科学否定論者の言説が絶対間違っているとも言えない。基本的にはデータをもとに目の前の事実をどう解釈するかだ。データの真偽とその解釈を提示して、多くの人々に考えてもらえばよい。自分はそのように考えているので、あなたも自分の意見とデータを広く問いかけて欲しい。ただし、どちらかの主張に従って人々に大きなリスクが生じたらお互いに考え直そうと言う。

サンプル答案(ChatGPT)

問1:理詰めの対応策とは、科学否定論者に対して反証可能性や論理的な反論を提示することを指します。限界としては、科学否定論者は理性的な議論を受け入れず、自らの信念を頑なに守ろうとするため、論理的な反論が効果を持たない点が挙げられます。さらに、理屈で説得を試みることが逆に疑念を深めさせ、科学否定論者の信念を強化する結果となることもあります。このため、理詰めの対応策だけでは十分な解決策になり得ないのです。

問2:科学否定論者の信念の萌芽は、私たち全員が持つ証拠や理屈を一時的に棚上げして自分や身近な人を信じる心情にあります。この心情が極端に発展することで、科学否定論に至ることがあるため、誰もがその潜在的な素地を持っていると言えます。

問3:科学否定論者に対して、理屈で反論するだけではなく、彼らの背景や感情に寄り添い、対話を通じて理解と共感を示すことが重要だと思います。科学を否定する信念の背後には、深い不安やトラウマ、強い帰属意識がある場合が多いので、まずはその心情を理解する姿勢を持つべきです。信頼できる人物として話を聞き、彼らの視点や疑問に真摯に向き合うことで、少しずつ科学的な視点に目を向けさせることができるでしょう。このような対話を通じて、科学否定論者の信念を揺るがし、科学に対する理解を深める道を探ることが求められます。

​<8>遺伝子診断

 

解答例

 DTC遺伝子検査のメリットは、確定的ではないが自分の体の弱いところや疾患の可能性などがわかり、生活習慣などで予防的配慮ができるところである。また、体の不調と照らし合わせて心配なら医師に相談して、早期の対応が可能なことだ。つまり保健・予防の自己管理に役立つ。デメリットとしては、まだ確定できない情報をうのみにして、素人判断で誤った対処をしてしまったり、不安に悩まされることだろう。

 単一遺伝子疾患の発症前診断は既に可能になっており、米国の女優のように家族性乳がんの発症確率が高いことが分かり、乳腺細胞の全摘で予防を行った例もある。DTC検査でも、医師との相談によって確定的診断に至って予防や治療のできる場合は有効性は高い。ただし、DTC検査はあくまで体質の傾向や病気の発症可能性の大雑把な把握なので、それだけをうのみにせず、必ず信頼できる医師や医療機関に相談することが必要だ。

 また、体質や予防・治療のできる疾患についての検査なら良いが、アルツハイマーなどのまだ予防・治療の難しい病気で、生活にかなり大きなダメージがおよぶ疾患の場合、その可能性があるという結果が出ればどうすればよいのか。以前テレビのドキュメンタリー番組で若年性アルツハイマーの発症前診断を受けて、苦しみ続ける男性が定期的カウンセリングと家族によって支えられて生活している様子を見たことがある。発症しても人生が失われるわけではないが、やはりおびえ、苦しむ姿は観ているのが辛かった。

 DTC検査によって何をなんのために調べるのか、また検査によって何がどのくらい分かるのか、事前にこうしたことを良く調べ、考えて利用するならよいが、課題文にあるような他人に安易にプレゼントするようなものではない。発症前診断などでも事前カウンセリングは不可欠である。まずはかかりつけ医に相談したうえで利用するのが最善だろう。

<1>情報を伝える

​設問1

日本の子どもたちには宗教や民族、土地をめぐる争いは身近でなく、パレスチナ問題は経緯を知らなければ理解しにくい。模型を使った説明では実感がわかず、ただ仲が悪い者同士のケンカとしか感じられなかったからである。

設問2

筆者はテレビでニュースを伝えている。テレビは映像媒体ではあるが基本的に「音声メディア」なので説明は言葉になる。なぜなら映像などを使えば悲惨なイメージが多少は伝わるが、それだけでは出来事の意味や背景などは理解できない。そこを分かるように伝えるのは言葉でしかない。だからこそ言葉にこだわっているのだ。

設問3

子どもに正確な情報を伝えるには、子どもが分かる言葉でなければならない。そのためには子どもの言葉理解の範囲と、どこまでの説明が必要かを知ることが大切だと筆者はいう。「相手の気持ちを損なわない」ためには、相手の価値観や心情を考えながら言葉を選ばなければならない。つまり伝える相手のことを十分に知らなければならないのだが、常に相手のことを知っているわけではない。ではどうするか。そのためにはただ一方的に話すのではなく、常に理解を問い返し、そのことについての相手の思いを聴きながら対話を進めることが大切だろう。
 

<4>認知症の人の困難や苦しみ

解答例

 私たちが人間・他者を理解するのは幼児のころだ。親や周囲からの働きかけによってそこに自分とは違う他者が存在するのを認識してゆく。やがて自分に反応して、欲求を満たしてくれることが分かると、そのように反応する相手を識別するようになり、そこから相互の意識的コミュニケーションが始り、物との判然とした区別が生まれると考えられる。

 だとすると、人と物の区別ができなくなるのはコミュニケーションが失われていくことから始まるのではないか。相手への働きかけと応答が十分に認識できなくなり、やがて、そこに存在するものの役割的機能が識別できなくなる。そして自分のいる世界への対応が取れなくなっていくのだろう。それは瞬時に生じるわけではなく徐々に進行する。特に初期では症状が断続的に生じるので、それに気づいた時の絶望感は大きいだろう。その過程で周囲の理解がないと相手にされなくなり孤立を深め、プライドも傷つけられる。

 認知症への理解がないと患者を孤立させ、どう生きていいかを分からなくさせる。認知機能やコミュニケーションが失われるといっても全くなくなるわけではない。その人の中ではその人独自の世界があり、そこを生きている。78歳の女性が18歳の自分を生きていることもあるという。それがその人の現実なので、その認識にそって共に生きることが孤立を防ぐ。認知症について理解を深め、共に生きる柔軟性が社会には求められるだろう。

サンプル答案(Gemini)

 私たちは、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)からの情報や、過去の経験、学習を通して、人や物を区別している。視覚では、人の形や動き、表情、物体の形状や色などを認識し、聴覚では、人の声や物の音、触覚では、肌の質感や温度、硬さなどを感知する。これらの情報を総合的に判断し、それが人なのか物なのかを判断している。また、過去の経験から、人は動くことができ、感情を持ち、言葉を話すといった特徴があることを学習しており、これらの特徴に基づいて人であると認識している。

 長崎さんのように、人と物を区別できなくなると、日常生活に様々な困難が生じる。例えば、人とのコミュニケーションがうまくいかず、孤立感や孤独感を抱くことがある。また、身の回りの物を適切に扱えなくなり、事故や怪我につながる可能性も高まる。さらに、自分の状態を理解できず、不安や混乱を感じ、精神的な苦痛を伴うこともある。

 認知症は、高齢化社会の進展とともに増加傾向にある。しかし、認知症に対する理解は十分とは言えず、社会全体で認知症の人々が安心して暮らせる環境が整っているとは言えない。認知症の人々が抱える困難や苦しみは、社会の構造や価値観、医療や介護サービスの提供体制など、様々な要因が複雑に絡み合って生じていると考えられる。

 長崎さんのように、人と物を区別できなくなることは、本人にとって大きな苦しみであり、周囲の人々にとっても対応が難しい状況である。認知症の人々が安心して暮らせる社会を実現するためには、私たち一人ひとりが認知症について正しく理解し、共生できる社会を築くことが重要だ。

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