解答例
小テストで取り上げた問題の解答例を、速報版として順次掲載してきます。また、関連資料等を含む詳細版はプリント置き場に置いてあります、適宜引き出して復習に役立ててください。
今週の小テスト
<9>命の選別
障害を理由とした妊娠中絶を認める「胎児条項」案は正式に国会で否決され、優生保護法が母体保護法に改正された後も、その見解は引き継がれ今日に至っているはずだ。しかし、実際にはNIPTの診断で陽性となった場合、90%以上の人が妊娠中絶を行っている。また、着床前診断が「生活困難」な障がいを引き起こす病気にも拡大されることになった。さらに、着床前スクリーニングはダウン症などをも対象に考えられているという。こうした流れは、「胎児条項」が否定されたところからは、大きく離れつつあり、命が障がいや病気の有無によって選別されはじめているのは明らかである。
もちろん、産む・産まないの選択は各人の事情により決定されるし、女性の主体的意思にゆだねられて当然である。そして、経済的困難から、あるいは育児負担に耐えられそうもないので中絶という個々の事情は考慮されるべきである。しかし、その理由が、生まれてくる子の障がいや病気であり、その負担を軽減する社会的支援がなく、その状態が放置されていることを多くの人が重視しないとなれば、これは国民の無言の意思ということになる。
民主主義を理念とする社会や国は、個々人の意思の総和で成り立つはずだ。十分な議論もなく、なし崩しに個々の意思が塊を作って、流れになっていくことも個々人の責任である。つまり私たちは今、障がい者や病者の社会からの排除を主体的に担っているのだ。
<参考>強制不妊手術の根深さ(月刊ガバナンス連載No.202・PDF)
<10>安楽死と尊厳死
解答例1
安楽死とは死が避けられない病状で、苦痛を解消するために患者の強い要望に応じて医師が致死薬を投与して安楽殺を行うか、または提供して自殺を幇助することである。これに対して、尊厳死は同じような病状において、医療によって行われる延命措置が単に死期を引き延ばすだけで、苦しみを助長してしまう場合に、この措置を拒否することである。安楽死が「死」を直接的に要求し、医師が死を導くことを目的とした行為を行うことであるのに対し、尊厳死はあくまで過剰な医療行為の拒否であり、死を目的にしたものではないということだ。
日本で安楽死が認められないのは当然のことである。医療の目的は患者の苦しみを軽減し、支えることである。しかし、いかに強く本人が望もうと、命を奪うことで済まそうとするのは医療とはいえないからである。患者の病苦に対して医療は様々な苦痛緩和努力をしてきた。その努力により「緩和ケア」という医療分野が進歩し、終末期医療の大きな柱となっている。
これに対して、尊厳死は苦痛緩和のための措置を十分に行うとともに、苦しみを助長するような過剰な延命措置は控えるという終末期医療のあり方に合致している。ただし、どのような措置が苦しみにつながるのかは事前に、医師・患者間でしっかり検討する必要がある。その上で患者望む最後の時間を十分にバックアップできる態勢があれば、尊厳死は認められてよいと思う。
解答例2
安楽死と尊厳死は目的、要件、方法等で大きな違いがある。そのため、設問にあるように、日本ではそれぞれ異なる取り扱いがされてきた。しかし、いずれも本人の明確な意思に基づく点で共通している。この共通点にこそ私たちが考えるべき課題があるのではないか。
私が強く疑問に感じるのは、本人は本当に死あるいは延命措置を受けないことを望んでいるのかということだ。安楽死ならば耐え難い身体的な苦痛があり、それを取り除く方法が他にない場合、本人は死にたいと考える。また、尊厳死の場合、本人が延命措置に意味がないと考えて拒否する、という説明は理解できる。しかし、いずれも生きる「望み」がないことによるのではないか。時間的にも意味的にも限られた命であっても、そこに何らかの「望み」があれば、もっと生きたいと願う人もいるはずだ。
人工呼吸器の装着に悩む患者の話を読んだことがある。彼は生きたいと願っていたが、家族が24時間の看護・介護を担える状況になく、延命をあきらめざるを得なかったのだ。それは彼の本心ではなかった。しかし、彼の心中や事情を知らない人からすれば、自らの意思で生をあきらめたかのように見えるだろう。人間の意思とは明確なものではなく、いつも大きく揺れ動く。安楽死と尊厳死をめぐる議論が要件、手続き論に終始し、最も肝心なところに届いていないのがもどかしい。
過去の小テストーーーーー
<7>医学部医学科の求める学生
問1:要約
旧文部官僚がケンブリッジを訪ね、面接について質問した。入学担当教員は面接では知識を様々な状況で応用できる能力と対応を見ると言った。欲しいのは「グッド・エキセントリシティ=良い奇人」である。教科書を超えた発想と対応ができる若者を求めた。日本でもその後、規定通りの手法は通じなくなり、未来を生む発想力が求められるようになる。不足しているのは変化に対応できる「良い奇人」だということに気付くことになった。
問2:見解論述
(A)賛成(思う)の立場
研究を目指すなら、常識的で型通りの発想の持ち主では良い研究はできない。これまでの発想では捉えきれない未知の領域を新しい視点から捉え返す必要があるからだ。また臨床であっても、既存の知識、経験では捉えきれない症状の患者に出会った時、診断と治療に様々な異なる視点からの取り組みが必要になるから賛成だ。
(B)反対(思わない)の立場
研究は別として、臨床では奇抜な発想などいらない。既に蓄積されている確実な知識をもとに、誤りのない診断と治療を行わなければならないからだ。診断が難しいからと言って自分独自の発想で決めつけ、奇抜な治療法を試してみることなど許されない。医師にとって必要な能力は根拠のある推論とEBMなので反対だ。
問3:見解論述
解答例1(A)の立場
医学・医療では、研究でも臨床でも多面的で斬新な発想は必要である。研究ではこれまでの解釈を覆し、新しい発見や理論を導くために、そのような資質が必要なことは言うまでもない。また、臨床であっても、これまでの常識では判断のつかない患者に出会うことがあるはずだ。たとえば、森永ヒ素ミルク事件では、ヒ素が脳神経に影響しないという理論は臨床の丹念な聞き取りで覆された。水俣病でも、シックハウス症候群でも、理論を超えて患者の病態に寄り添うことで原因解明につながった。これからは、環境や心因など広い視野からの取り組みが必要であり、また単に治療だけを目的にしない患者のQOLへと想像を延ばす必要があるからだ。
解答例2(B)の立場
臨床を目指す私自身は、そのような人材は臨床には不向きだと考える。(B)で述べたように、臨床では冒険を犯すべきではないと思うからだ。生身の体を持った患者に行う医療は常にリスクを伴う。投薬も手術も、一つ間違えば患者に大きな被害を与えることになりかねない。もちろんなかなか診断のつかない場合や治療法の見つからない場合もあるだろう。だからと言ってまだ実証もされていない治療を試してみることなど許されない。そうした場合には、動物実験や臨床研究を重ねることで、実証を得て初めて実用化するのだ。患者の健康と命に関わる行為を行う医師には奇抜な発想などではなく、経験を大切にし、慎重の上に慎重を期す性格が必要なのだ。
<8>「さわる」と「ふれる」
「さわる」というのは、自分の感覚が主体で、対象がどのような存在かを確かめるために知覚情報を得る行為である。そういう意味で哲学者が「一方的」というのは理解できる。医療で言えば、「触診」がこれにあたるだろう。患者が腹が痛いと言えばその膨満感などを調べるために腹部を「さわって」診る。これは触れることによって得た知覚情報を、知識や経験に照らして診断データにつなげていくための行為である。触診でも腹を押してみて痛いかどうかを患者に尋ねる場合、相手の反応が問題になるので相互的なようだが、あくまでも痛みの有無や度合いという「情報」を得るための行為なので一方的である。
「ふれる」は、その知覚から情報を求めるというよりは、それによっておこる対象の変化をみようとする。しかし、それだけではなく、それが自分に対してどのような影響をもたらすかの両面の変化を捉えようとする行為である点で、哲学者は「相互的」というだろう。これは医療で言えば、傷口に「ふれ」てみて、痛いようであれば、なるべく痛くないように気を遣って痛くないように手当てするという行為になる。相手に生じる「痛み」とそれに対して自分がどう対処するかの両面に注意が向けられるのである。
また、患者から問診などで話を聞くとき、どこまでその人のプライバシーに「ふれ」てよいかに気を遣うはずだ。自分の言葉がどのように受け取られるか、相手の反応を見ながら言葉を選ぶ。これは特に痛みを持つ他者と「ふれあう」ときに大切になる。つまり、「ふれる」では医師が医学的に必要な情報を得るためだけではなく、患者が何を感じ、何が必要なのかを受けとめることが大切になる。
つまりこの二つの言葉は、医療に求められる二側面、病気という現象への医科学的アプローチと患者への人間的アプローチを表しているものと考えることができる。
<1>大学ではどのように学習するのか?
大学ではまず,基礎的な知識をしっかり身につけたい。それは教科書や講義,あるいは実習などで先生や先輩の指導の下で身につけることになる。ここではまだグライダーだが,その中で常に学んだことのー歩先への疑問を持ち,課題としたい。医学は常に未解明な分野を残している。何がどこまで分かっているのか,常にそれを意識しながら「問い」を見つけるのである。しかし,その問いに答えていくためには,すでに解明され,理論として確立されている知識をしっかりと自分のものにしなければならない。それが十分に消化されていなければ,それから先の問いに答えられるはずはないからだ。
したがって,まずは必須とされる講義や実習に全力で取り組もうと思う。そしてその中で「問い」を蓄積していくのである。そこが飛行機能力育成の出発点だと思う。
自分に「問い」に向き合う一定の基盤ができたなら,蓄積された「問い」の中で,最も取り組みたい課題を一つ設定し,時間を作って自主的な取り組みを開始する。その「問い」に答えている資料はあるか。なぜそこで研究は行き詰っているのか。とりあえずそこまでは自分で探求してみる。本格的な研究に取り組むのは学部を卒業した後になるだろうが,学部時代から,このように積極的に未知にチャレンジしていく習慣をつけることが,飛行機能力を養うことにつながるはずだ。
<2>これからの地域医療
設問1
仮説では疾病構造は文明の進捗とともに、感染症中心の段階から生活習慣病中心の段階へ、そして「社会的不適合」による死が中心の最終段階に移行する。主要死因や高齢者人口のデータから日本はこの最後の移行期に来ている。このような生活習慣病中心の社会では、医療は、患者が病気と共に生きるのを援助し、QOLの向上を目指していく。つまり「キュアからケアへの変化」により医療が「援助サービス」であることを認識するべきだ。
設問2
人口の高齢化と疾病構造の変化によって、地域医療の中心は生活習慣病や認知症など脳神経障害と共に生きる人々を支える「援助サービス」となってきている。感染症など急性疾患への「キュア」を中心とする医療では、緊急性が高く、検査や治療でも重装備の入院可能な施設で濃厚に行わなければならないことが多い。したがって、日本でも急性疾患中心の時代に合わせて、地域医療の中心は地域の中核病院が拠点として配置されてきた。
しかし、慢性疾患中心の時代になれば、課題文にある通り、その病気と共に日常生活を続けなければならず、患者の意志と努力を支えるような形で医療チームが働かなければならない。そのためには、こうした時代の地域医療は、住民の身近に配置されている診療所の「かかりつけ医」を中心に、保健・予防、慢性疾患への日常的ケア、療養の必要な場合の在宅・訪問医療体制を整えていくことが必要である。この第1次医療を背後から支え、急性疾患や重症化した疾患への対応をこれまでの病院医療が担うというシステムがこれからの地域医療の基本であり、パンデミックなどでもこの体制は崩すべきではない。
今後、急性疾患の患者が激増した場合に備え、対応できる病院専門医の確保・維持が重要だ。そして流行時期には、検査やワクチン接種、濃厚接触者の見守りをかかりつけ医が、発症すれば病院がという、地域での機能分担と連携で乗り切る体制整備が必要だろう。
<3>日本が目指すべき医療制度
問1 自由か平等か、どちらの医療を選ぶのか
問2
(その1)
保険とは、病気や事故などの不測の事態に対して各人が拠出した資金を原資に協同で対処する仕組みだ。この制度を基盤とする国々では、国民に資金の拠出を義務づけ、公的機関が強制的に徴収する。そして、日本の公的医療保険のように、各人の所得に応じて拠出金額を変える応能負担を原則として公平性をはかる。所得の有無や多寡にかかわりなく万人に平等に提供され、国民の税金で賄われる北欧諸国やイギリスの医療制度に近くなる。
(その2)
米国では、医療は個人が選択するサービスにすぎず、一般の商品と同様自己責任で手に入れるべきものとされるので、経済力に応じて医療の質に格差が生じる。一方、公平性を重んじる北欧やイギリスでは、医療を受けることは個々人の基本的人権に属するものとされ、社会がそれを支える。国民のほぼ全員を公的医療保険に加入させ、支払われた保険料で医療費を賄う制度も、医療を万人に平等に提供することを目的とするので後者に近い。
問3
(その1)
二つの未来像とは、「持てる者と持たざる者との間が大きく分裂した社会」と「持てる者と持たざる者との間の差が縮まる社会」のことをいう。私は後者の未来像に基づいて、今後日本が目指すべき医療制度を考えたい。なぜならば、人間の命の重さは平等で、絶対に、お金のある・なしで差別されてはならないと考えるからだ。
日本は国民皆保険制度に基づき、公平な医療の実現に努力してきた。それは世界で有数の平均寿命の高さをもたらす一因になった。この歴史的事実からも、後者の未来像の実現可能性と有効性がわかる。人間は病気になっただけでも不安になり、絶望すらする。貧しいために医療を受けられない社会では、一人ひとりの不安や絶望は大きくなり、医療本来の役割は果たせない。基本的には従来までの医療制度を、今後の日本は維持すべきだと考える。
しかし、国民皆保険制度が揺らいでいるのも事実だ。それは医療の高度化と急速な少子高齢社会の進展によって医療費が増大し、保険財源が枯渇しているからである。保険で賄いきれない分は税金でカバーする公費負担になるがこれにも限界はある。このような国民皆保険制度の危機に対応するためには、医療側の努力だけでなく、負担増の受け入れや適正な受診など患者側の努力も重要だ。「どのような社会で生きることを望むのか」という問いかけは、医療側だけでなく患者側、つまり私たち一人ひとりの生き方にも向けられている。
(その2)
日本には国民皆保険制度があり、患者窓口負担が原則三割ですんでいる。また、高額療養費制度があり、医療費の月額が一定限度を超えるとそれ以上は公的負担になるので、特別に裕福でない人でも高度医療を受けることができる。日本はこの仕組みを堅持すべきである。米国のような社会では、一部の富裕層を除く人々は「お金が足りないので自分や家族の命を諦めなければならない」状況に陥るリスクにさらされることになる。いつ自分がそういう状況に陥るかはわからないので、人々が安心して暮らしていくためにはいざという時のための安全網が必要だ。それが私の考えるのぞましい社会のあり方である。
最近は日本でも米国流の自己責任論がもてはやされがちであるが、それは医療費が膨張し、国民皆保険が破綻するのではないかという不安があるからだ。その原因である高齢化は不可避のものであり、医療技術の進歩も止めるわけにはいかないので、医療費を劇的に減らす方法などあるはずもないが、国民皆保険を維持するために知恵をしぼるべきだ。患者一人に年間何千万も使う高度医療は保険適用から外し患者自己負担とすべきだという声もあるが、高度医療へのアクセスの公平性の維持も大切なことなので、それは最後の手段である。予防医療に力を入れる、病院と診療所、医療と介護の役割分担を明確化して医療を効率化するといった努力の積み重ねで、医療費の膨張をなんとか抑えていくしかない。
<4>人工知能と医療
問1
解答例1
診断・治療法選択は人間よりも効率よく,正確に結論を導くかもしれないが,誤る可能性もある。だがAIのアルゴリズムは人間には理解が難しい。これをチェックできないと医師は責任を持てない。
どのデータからどのような情報を抽出したのかを後追いできるようなシステムを必ず装備する。そして医師がAIの選択に違和感を感じた時にはその根拠を確かめ,医師の責任を明確にする。
解答例2
データバンクからの情報は匿名化されているが、健康診断やスマホの健康アプリなどからの場合は個人情報が当人の了承なく使われることになる。個人情報を本人同意なく使うことは問題だ。
この危険に対する対策としては、健康診断や健康アプリを使う場合は、データの匿名化による利用を許可するか本人の同意取得を原則とする。同意のない場合は集積データには含まれないようにする。
問2
すでに、何種類かのガンなどにAIによる診断と利用法の候補選択が用いる試みが進んでいる。診断と治療は医師の仕事の主要部分である。これまでは正確な診断と治療法選択に医師の能力が問われてきた。ここを間違えれば医療過誤に直結し医師の責任が強く問われるからだ。しかし、AIの導入によって経験ある医師かそれ以上の正確さで、しかも短時間で過去の症例を根拠にした診断・治療が可能になっているようだ。
この医師の仕事の根幹をAIに任せるとすると、医師の役割と責任は軽くなりそうだ。しかし医師には診断・治療の前後に「患者を診る」という重要な役割がある。医師の仕事は患者への診察から始まる。診察ではじっくりと症状を聴き、患者の気持ちを受け止めることが必要だ。患者は病気の苦しみだけではなく、それによる生活上の苦しみを持つ。その事情も考慮しなければならない。これには、最初の診察時と、診断・治療法決定のインフォームド・コンセントでの対話が必須である。医療的観点と患者の要求をすり合わせ、最善の治療やケアを探るのは個々人の価値観が関わるのでAIには任せられない。
また、診断・治療法をAIが導いたとしても、その根拠について医師がチェックできるようにしておかないと、責任を持った医療にはならない。そして、治療の予後の患者の様子や感じることを聞き取り、適切なケアを行うことも医師の役割である。
<6>新しい医療を進める医師の責任
問1
公害などで原因が明確にならないまま被害が広がっている時、因果関係を究明しないまま対策を講じて、その対策が間違っている場合、投じた費用が無駄になり、被害を拡大させるという主張がある。この主張は、科学が「未知の応用」を含むため、未知の領域からの危険の予兆は因果関係を明示しない場合が多いということを覆い隠す。一見、正論に見えて実は利害関係者の利益だけを守ることに誘導しようとする罠となるということ。
問2
遺伝子治療は重篤な遺伝疾患の根治治療として注目を浴びている。しかし、遺伝子の欠損や異常によって引き起こされる疾病に対処するには、その異常が発現する組織や臓器の細胞全体に遺伝子の組換えや導入を図らなければならない。現在のところ体細胞への遺伝子治療は、レトロウイルスベクターなどを使って組み込みが行われているが、クリスパー/キャス9を使ったゲノム編集では高確率でピンポイントの組み換えが可能になっている。
ウイルスベクターについては、それが染色体上のどの部分に入り込むか分からず、制御もできない。このため、もし構造遺伝子の特定の配列部分に入り込んだ時、どのような影響が出るのか分からないことが指摘されてきた。だが、新しいゲノム編集技術なら狙った箇所の修復が可能である。しかし、それもオフターゲット変異という、狙いと違う場所を組み替えてしまう危険もある。これが体細胞への治療なら患者個人のインフォームド・コンセントによりリスク覚悟での治療はあるだろうが、体細胞の多くは一定期間で入れ替わってしまう。そのため遺伝子治療は生殖細胞で行われるのが最も効率がよいと言われる。 だが、生殖細胞の改変では、あまりに未知の領域が多いため、未来世代への責任としてこれは行わないことが世界の医師たちの合意事項となっている。患者や社会への責任として、危険への予兆を医師たちは重く受け止めているのである。