top of page
​講評・医系

いずれも人間が書いた「作品」です。簡潔で的確すぎて、厚みや深さ、そして余白を欠くのがAIの記述です。そこにはない「良さ」を感じ取ってください。

オマケ:防衛医科大学医学部医学科2025「小論文」速報

小テスト③ <講評>は工事中

<サンプル答案>

 

〈14〉医療保険制度

【Yさん】

設問1

日本は福祉国家を求めつづけてきたが、福祉国家の矛盾が確信へと変わり大きな制約を伴っている。現在の医療を支えているのは、いつ尽きるか分からない不透明な財源であり補うために国民の負担を増やすわけにもいかず、多くの人がその持続可能性に疑問を抱いている。このように、何かと安定しない財源の上で行われている医療を踏まえると政府が福祉国家の理想を求めると言うとしてもその保障はどこにもなく曖昧であるという状況。

設問2

日本は、国民皆保険の名の下で全人にいずれかの保険制度への加入を義務付け、医療の価格は公定価格として国が定める。一方で、医師には自由開業制を認めているため医師は自由に開業し患者にはフリーアクセスが認められているため自由に診療を受けることができる。その結果として医療施設や医師が偏在することにより、同じお金を払い保険に加入していても地域により医療格差が生まれたり、医療施設の集中化、集約化に進展がないために極端に医療資源が分布したりしている。また、公立病院は独立行政法人化され診療経費に関して財政支援を受けず経営している。そのため、一部の自治体病院が多額の公的資金の援助を要求し継続困難となり得る。

設問3

急速に進む高齢化に対して、日本の医療では一次予防を目的とする活動を促進すべきである。

重い病気を除き、多くの場合疾患は未前に防ぐことができる。高齢者の増加に伴い財源を増やそうとしても、生産年齢人口への負担が大きくなるだけでキリがない。一次予防に注力することによって、病院にかかる高齢者を最低限に減らすことができ医療費を削減することが期待される。この一次予防は、病院に限定せずどこでも行うことが可能なため地域間で格差も生じないだろう。

不足している財源を補う対策を考えるのは限界があるが、根本に立ち返り一次予防を進めることで現在の医療の問題を解決する手助けとなるだろう。

 

【Nさん】

設問1

 「著しく明瞭さを欠いたイエス」とはイエスだが大きな制約を伴うという事である。日本は1980年代まで西ヨーロッパ諸国のような福祉国家を目指しており、現在も医療が公平・平等に提供される事に重点を置いている。しかし、現在は経済の成長が明らかに限定的となり、今後社会保障財源を持続的に確保できるのかも分からない。だから、安直にイエスと答える事は出来ず、大きな制約を伴った上でのイエスであるという事。

設問2

1961年に国民皆保険制度が実現し、医療を取り巻く環境は大きく変化してきたが医療制度はあまり変化せず今日まで続いている。国民は全員いずれかの保険制度に加入する事が義務化され、医療の価格は国が定めた公定価格である。このように公的規制が強いが、医師はどこでも自由に診療所を開業できる自由開業制で患者はどの医療機関も自由に受診できるフリーアクセス制である。この医療体制には全員が健康保険に加入していても医療が非常に受けにくい地域が生まれるという問題や医療施設の集中化・集約化が進まず医療資源の分布がアンバランスになるという問題が生じている。しかし現在の体制では政府が強制的に体制の変革をする事は困難である。

設問3

 私は急速に進む高齢化に伴い必要となる医療改革を早急に進めるべきだと考える。保険料を納める者に対して医療費が無料化されている高齢者の数が増え続ければ確実に社会保障財源は確保出来なくなり、今の医療提供体制は維持出来なくなる。しかし、日本の医療機関の八割以上が私的な設置形態によるもので、完全に新たな制度を導入する事は無理がある。そこで現在の制度を少しずつ変革し、同時に新しいものを少しずつ導入していく斬進的方法を採用するべきだと考える。少子高齢化が急速に進んでいる現在、悠長に改革をしていては医療体制は崩壊してしまう。したがって早急に改革を進める事が必須であると考える。

<16>国際医療支援

【Iさん】 

問1

健康や病気は、それが議論される文化的な背景によって固有なものである。集団や社会、または個人としての価値系体やその価値観といった文化のレンズに通して見たときに、それぞれの視点で大きく異なる。先進諸国が近代医療を提供し、途上国が受け取るという際にも、 疾病を抱えているという生物学的に見て病気と言える状態から、生物学的に健康な状態へ助けを出すことはできる。しかし他の文化で生きる人々から見て、疾病の流行よりも重大で、「病気」と呼べる状態が存在する。つまり医療人類学の視点から見たときには、単に生物学的な健康や病気だけではなく、文化的な様々な要素を含めた時に「健康」や「病気」と判断することができる。

問2

 私は国際医療支援現場では特に、「与える」、 「受け取る」の感覚をお互いに持たないことが重要であると考える。集団や個人としての今までの取り組みや価値観によってできたレンズは大きく異なり、容易に変容するものではない。そのため、科学の力を押し付けて強制したり、武力の力で反発するように、相手のレンズに手を加えることをすれば、新たな問題が生まれてしまうかもしれない。そこで私たちがするべきなのは、レンズを解り合うのではなくて、対等な立場で新たな解決策を共に作ってゆくことである。 

 そのために私たちが努めるべきなのは、積極的なコミュニケーションと、説明と同意の撤廃である。相容れない価値観や文化を理解するためには、「情報」として取り入れるのではなく、「共有」という形で吸収することが不可欠である。特に、新たな問題の解決に向けて先に声をかける国々は、相手の文化的要素に耳を傾け、理解を示した上で 意思を伝えてゆかなければならない。

【Kさん】 

問1

 医療人類学において、健康と病気は、生物学的及び社会文化的の両方の視点から考えられている。つまり、生物学的に同じ健康状態、病気であったとしても、異なる文化圏ではまったく違った認識を持つ場合がある。人々は育った文化の中で世界観という世界の認知方法を習得している。異文化間の世界観が一致することはない。しかし、人々が健康、死、病気、性を捉える時に世界観は必ず影響を与える。その世界観以外にも個人、教育、社会・経済、環境などの多くの要素が健康や病気の捉え方に絡まっている。つまり、文化による世界観の差異のみならず、その文化の背景に複雑なものに注目することで、医療人類学における健康と病気を理解できる。

 本文で例示された国際医療支援現場で起こった問題は援助する側と援助される側の優先順位の不一致によって起こっている。それは、双方の世界観の違いが原因である。この問題を解決するためには、支援の準備の段階で支援する側が支援される側の世界観、又はその背景にあるものを理解する必要がある。支援するだけなら、良いと思う人もいるだろうが、 例示されているように、支援される側の伝統的な文化・価値観が無視されることが起こっている。それならば、配慮できるように対策を上記のようにしなければならない。 

 今回の支援する側の狙いは、他国で発生し、自国の脅威になりうるだろう疾病を早期対策をすることだろう。その狙いは、疾病を世界に広めないためであり、妥当に思われる。しかし、支援される側からしたら、もっと深刻な問題を放置した挙句、伝統も無視して、願ってもいない支援をされていると感じられるだろう。このような現状では、支援を名目に、疾病の隔離措置を強行しているように私は感じてしまう。だから、支援する側は、支援される側の世界観やその背景を理解した上で支援をする必要があると私は考える。

小テスト②

<講評>

どんなことでも“絶対に正しい”ということは存在しないと私は思っています。医療であれ、科学であれ、昔はこれが正しいと多くの人が信じていたことが日々の研究によって、覆ることは多々あります。おかしいと思うことでも、それを聞いて相手を説得したり諭したりしようとせず、まずは自分を疑ってみること、そこから一つ一つデータとfactを積み重ねて、しっかり納得するまで一緒に考えることが大切なのではないでしょうか。相手の考えを否定し、自分の考えが必ず正しいと思って相手に接することこそが、一番避けなければならないことだと考えます。Nさんの答案の第一声、「どうしてそうお考えになるのですか」には相手の考えに興味を持ち、受け入れる姿勢が反映されています。また後半の「科学否定論者もそうでない人も社会の幸福を追求しているという点では共通している」という記述からも、科学否定論者を面倒な人と決めつけるのではなく、対等な立ち位置で相手を尊重していることが感じ取れます。多様性を認め、一緒に社会をより良くしていこうとする考え方がとても素晴らしいですね。

そもそも、“科学否定論者”とはどういった人を指すのでしょうか。ワクチンを打たない決断をした人がすべて科学否定論者というわけではないはずです。どんなワクチンや薬でも有効性と副作用が必ずあります。その両者を比較して有効性が上回る場合にそれらを使うべきです。誰からみても有効性が上回るというものから、個人の考え方によってそれを使うかどうかに差が出るものもあって当然でしょう。子宮頸がんのワクチンについて、日本では賛否両論別れるところだと思います。私は子宮頸がんに罹り命を落とすリスクとワクチンで副作用が出るリスクを考えた時に、子宮頸がんのリスクの方が高いと考えています。そのため、ワクチン接種をした方がいいと思っています。しかし、接種の副作用が出る確率はゼロではないため、副作用によって何かあった場合には後悔する可能性もあります。そこは個人の判断であり、接種するよう諭すというのは違う気がします。Kさんは「筆者が言うような『やさしく諭す』というようなことはしない。」「先生と生徒の関係性で科学否定論者の考えを教えてもらう」と書いています。このような姿勢はとても大切だと考えます。Kさんに対して、相手は自分の考えていることをきっと詳しく話してくれることでしょう。

科学や医療は手段であり、目的ではありません。医師の勧める通りの治療を受けて、医師が提示する制限された生活をして長生きすることが幸せなのか、多少寿命が短くなっても制限なく自分のしたいことをして生きたいという人もいるかもしれません。個人の決断に何が正しい・正しくないということは無いはずです。その決断はその人の生き方そのものであり、誰かに矯正されるようなものではないのです。判断材料の不足によって、本人がきちんと判断できないことが一番の問題であると思います。メディアや医師は情報を提示することで、本人がベストな判断ができるようサポートすることが大切なのではないでしょうか。個人の決断を、上から目線でどうにかさせようという考えではなく、なぜその人はそういった考えなのか、どんなfactを知ってもらう必要があるのか、一緒に考えることが必要であると思います。

<サンプル答案>

 

【Nさん】 

科学否定論者に対して私が言う第一声は、「どうしてそうお考えになるのですか」だろう。文章にあるように、科学否定論者にはそれぞれに考える事、考えるに至った過程が存在すると思うからである。彼らの考えの根本に踏み込む努力を始めない限り、科学否定論者をも巻き込んでの社会問題解決は、不可能であるように思う。 

 それゆえに、まず彼らが科学否定論を主張するに至った引き金を探る必要があるだろう。科学的な知識不足故なのか、物事には裏があると思わざるを得ない経験故なのか、同様の主張をする者同士の間での承認要求や心のよりどころとなるが故なのか、様々であろう。それぞれの科学否定論的意識を緩和するために必要な最良の一手を見極めて、「手遅れになる前に世の中全体を動かす」ことができるよう、踏みこんで考える姿勢が必要であるように思う。 

 問題なのは、「科学否定論者にそうでない人が巻き込まれる事」である。科学否定論者もそうでない人も、個人更には社会の幸福を追求しているという点では共通しているのかもしれない。ゆえに、科学否定論者の思考に踏み込むと共に、幸福追求という共通点うったえかけることで、個人の思考の自由があり多様な考えが混在する中でも、社会を良い方向に動かすことが可能なのではないだろうか。 

 

 

【Kさん】 

 私は科学否定論者に対して「あなたの意見には賛成できない」という意思表示をしっかり示した上で「しかしながら私も政府のプロパガンダの被害かもしれない」などと譲歩の余地を見せて「だからあなたの考えについて分かりやすくかつ詳しく聞かせてくれ」と言う。このようにやはり私は科学否定論者との付き合い方は「対話」であると考える。ただし、筆者が言うような「やさしく諭す」ことや「理論武装して議論する」というようなことはしない。私は先生と生徒の関係性で科学否定論者たちと接したい。人はいつでも真っ向から自分の意見を否定されたりそのようなことに準ずることをされれば悲しいし腹が立つ。そしてそんな状態では彼らとの溝が深まるばかりで折り合いをつけていくどころの話ではなくなる。だから、まずは立場は明確にさせてもらうがその上で彼らの考えを教えてもらうという姿勢が大事であると考える。また彼らは寂しい思いをしているという可能性もある。同様の思想をもつ仲間がいるとはいえごく少数に限られ、特異な思想を持っていること以外趣味も嗜好も何も一般人と変わらないにも関わらず思想を少し表に出した途端に友人から距離を置かれて孤立するという経験をする人もいるのではないだろうか。孤独だからこそ叫んで自分に気づいて欲しい人もいるのではないだろうか。そのような叫びに身近な人間から気づいていけば筆者の言う「面倒事」ではなくなるかもしれない。 

演習テスト②

<講評>

 

 「貧困を抱えた患者がいないのではなく、私に見えていないだけ」と課題文の筆者が書いているように、“貧困”は見えにくいものです。しかし、今回この問題に取り組んだことによって、医師を目指すみなさんの意識が大きく変わり、“見よう”としていることが、答案を読んでいて伝わってきました。とても頼もしく思います。まずは見ようとすること、その意識が大きな一歩になるはずです。

 さらに、Tさんは、地域医療の現場では医療機関や医師も不足しており、そのような中で貧困に関してまでサポートするには限界があるはずだという課題に言及しています。確かに、医師がその患者さんを一人で助けてあげなくてはいけないという感覚は危険だと感じます。医師が抱え込んでバーンアウトしてしまったら、患者さんを救うことができません。Iさんは「貧困に悩む患者さんがいるという事実を知っておくだけでも接し方が変わってくる」「自分が医師になり働く時には医療現場における貧困があるということを忘れないようにしたい」と書いています。まさに、医師が果たす役割として重要なことは、そういった患者さんがいるかもしれないと常に意識して接すること、患者さんのSOSに気付いてあげることなのではないでしょうか。そこから先は、治療計画での配慮等はあるかもしれませんが、基本的には福祉の相談窓口等のサポート機関に繋ぐべきであり、医師が多くのことを一人で抱え込む必要はないと考えます。

 また、貧困は収入の高い低いだけでは測れないと感じます。例えばシングルマザーで仕事が忙しく、子供を病院へ連れて行く時間が取れない人もいるかもしれません。子供の健康と仕事とどちらが大切なのか、という声が聞こえてきそうですが、母親は子供を一人で育てていくために、絶対にその仕事を失うわけにはいかない状況なのかもしれません。会社によっては、子供の通院等でお休みが多くなることを良く思ってくれない会社もあるかもしれません。母親は様々な状況の板ばさみになっていることも考えられます。たとえ収入があるとしても、そういった状況も一つの“貧困”ではないでしょうか。

 子供の健康を願わない親はいないと思います。しかし、多くの人が様々な状況を抱えながら子育てをしています。それを、診察中の短い時間に医師がすべて理解することは不可能なことです。しかし、“定期診療に来ない困ったお母さん” と決めつけるのではなく、“何か原因があって通院することができないのかもしれない”という考えを医師が持つことで、患者さんへの言葉がけ一つとっても変わってくるはずです。患者さんの抱える状況への共感の言葉は、患者さんを癒すことができるでしょう。そして、医師と患者さんが信頼関係を深めることで患者さんはSOSを出しやすくなり、医師は患者さんのSOSに「気付く」ことができ、それをサポートしてくれる機関に「繋ぐ」ことができるのではないでしょうか。

<サンプル答案>

【Iさん】 

私はこの文章を読むまで医療現場の貧困問題について深く考えたことがなかった。だが、よく考えてみると医療現場の貧困問題はかなり深刻な問題なのではないかと思った。例えば定期通院が必要な患者さんがお金が払えなくて来なくなったとする。そうするとその患者さんの病気が悪化してしまい、さらに高い治療費が必要になる。でも払えない。このように悪循環に陥ってしまう可能性があるのだ。最悪の場合、命を失ってしまうかもしれない。そんなことが起きないように医師ができることについて考えてみようと思う。  

私が一番大切だと思ったことは、患者さんとのコミュニケーションだ。自分が患者さんのことをわかったつもりになり、勝手にその人がどんな人かを決めつけてしまうことは危険だ。なぜなら、自分が何気なく言った言葉で患者さんを追い詰めてしまうことがあるからだ。医師は病気のことだけでなく、患者さん自身のこともみなければいけないと思う。また、コミュニケーションを取る上で、自分の考えや意見、価値観を一方的に押しつけないことも重要だろう。もちろん医師の立場ならこうするのが一番良い、と決める時もあるだろう。しかし、そのような時も患者さんに確認し、不安がある時はよく聞いて、共に解決していくことが必要になる。 

また、貧困問題において、 医師たちはそのような問題を抱えている人がいることやその人たちが使える制度なども知っておくとよいだろう。貧困に悩む患者さんがいるという事実を知っておくだけでも接し方が変わってくるだろうし、 実際にそんな患者さんに出会った時に制度などを知っていれば力になれることもあるのではないだろうか。自分が実際に医師になり働くときには、医療現場における貧困があるということを忘れないようにしたいと思う。 

 

【Tさん】 

小児科の医師の先生への医療現場における貧困へのインタビューを通して、金銭的な問題で満足のいく治療を受けられていない貧困層の家庭が日本にもまだ沢山居ることを改めて認識した。また、近年の日本では、少子高齢化による高齢者増加に伴って、多額の医療予算が国単位で必要になってしまい、以前よりも税率を上げる動きが加速していると聞いた事があるが、こうした貧困層の家庭への援助が問題視されず、援助があまり進んでいない事に関して疑問を持った。国民皆保険制度など、国民に対して平等な医療を受ける形が整っている事が日本の良い所だと私は思う。そして、国民もそうした国の取り組みに賛同し、国の定めた税を支払うことは重要であり、果たすべき義務であると思う。しかし、税を支払っているにも関わらず、十分な医療を受けられていない人々がいる今の状態は、はたして平等な医療と言えるのだろうか。おそらく、税率を上げること以外にも、あまり重要性のない取り組みに使われている国家予算もきっとあるはずだ。なので、今一度、国家予算の配分に関して国に考え直してほしいと思った。また、貧困層の家庭に対する現場での医師の対応の苦労もこのインタビュー記事から伝わってきた。都心ではあまり、こうした貧困に苦しむ人々はそれほど多くないのかもしれないが、地方に行く程貧困に苦しむ人が増加していると読み取る事が出来た。また、それに加えて、医療機関や医師も、都心から離れれば離れる程、減少している事がそうした人々に更なる追い打ちをかけていると感じた。そうなってくると、現場の医師は患者のデータを基に治療を行うと同時に、貧困に苦しむ患者へのサポートをすることが必要になってくるだろう。しかし、限られた場所と人数でそうした事までサポートするには限界があるはずだ。なので今後は、地域医療に関する取り組みについても、考え直す必要があると感じた。 

演習テスト①

<講評>

 文章中の「自立」に対する筆者の説明については、みなさんとても的確にまとめており、出題文をしっかりと理解していることが伝わってきました。それを踏まえた上で、“自己決定”について自身の考えを述べることが、今回の問題のメインになります。“自己決定”という言葉の概念だけで800字も述べるというのは、かなり難しいかと思います。自己決定は様々な場面で行われているものであり、この論文を書くにあたって、自己決定が行われる場面設定、または自己決定における課題設定をするなど、自分でテーマを描いてから、書き進めていくことが大切になってくるかと思います。問題文の内容だけで書き進めることで、後半息切れしてしまい、字数を稼ぐために同じような内容をリピートするという苦しい展開になってしまった方も見受けられました。

 良い例として、Wさんは医療現場に場面設定をし、患者の自己決定の難しさということにポイントを絞って、ご自身のお母様のエピソードを交えながらわかりやすく説明していました。「患者の自己決定には医師や専門家のサポートが欠かせないこと」、「患者と医師が一緒に考えていくことが大切である」と述べています。“一緒に考えていく”というところが特に素晴らしいと感じました。というのは、たった一人で決めることが自立ではないからです。さらに、一人だけで決めてしまうことの危うさについてもエピソードから考えさせられます。また、Kさんは“他者にも存在する自己決定との折り合いの必要性”に言及しています。周囲の人たちの視点も加わることで、内容が深く広くなっています。また、視点の変化だけでなく、時間軸の変化として「人は移り変わる感情をもっているため、それに伴う自己決定は本来更新され得るもの」としています。認知症などを例に挙げ、以前の決定をいつまで本人の決定だとみなせるのか難しいと自己決定の課題をあげています。視点や時間軸を変化させ課題を指摘しながら論じていてとても充実した内容になっていました。Oさんは認知症などで本人がうまく表現できなくても、すべての人が自己決定をすることができるようにするために「周りの人が本人のニーズを大切にする姿勢」や「日頃から自分はどう生きたいのかを伝えていく必要」について述べています。認知症だけでなく、うまく表現できない人は多いと思います。相手の話に耳を傾け、相手を尊重する思いやりの心を持つことも、すべての人が自己決定できるようにするためには大切なことであると考えられます。それに気付かされる素敵な論文でした。

 すべてを紹介しきれませんが、みなさん“自己決定”ということに対して、様々な立場から考え、課題提起し、優しさと思いやりのある論述を展開していました。素晴らしい論文を書いていただきありがとうございました。

 

​<サンプル答案>

【Wさん】

 「自立」とは、「自分のニーズは自分で決める」ことであり、障害の有無に関わらず、誰もが他人にそのニーズを満たしてもらいながら相互依存して生きている、と筆者は述べている。

 医療においても、患者が自分の意志で治療の方針等を決める、患者の自己決定権が重視されてきている。

 しかし、患者の自己決定は、必ずしも簡単には実現できないのではないかと思う。なぜなら、医師という専門家の決断に素人が異議を唱えたり、文句を言ったりするのは容易ではないし、もし患者の意志で治療の方針を決めても、上手くいくとは限らないからだ。

 例えば、私の母は約4年前に乳がんを患い、左胸を全て切断する外科手術と、新たに胸を作る形成外科手術をしなければならなかった。しかし、その時期は兄は大学受験、弟は中学受験の年で、父は単身赴任で遠くで暮らしていた。そのため、母は入院回数・期間を減らすために、2回の手術を1回でしてもらうように要求した。医師の先生方は前例はほとんどないと初めは断ったが、最後は母の意志を尊重してくださった。手術は10時間以上にも及び、無事に成功したが、身体への負担は大きく、退院した後も傷口はなかなか良くならなかった。そして、今年の11月に、癒着している傷口を再手術することになった。

 母は自己決定を実現したが、もし、あの時医師の判断に従って2回に分けて手術していたら、今頃はもうすっかり元通り元気になっていたかもしれないと思うと、患者の自己決定には、より一層医師や専門家たちのサポートが必要になると思う。その治療法以外に他にどの様な選択肢があるのか、またそれを選択するとどの様な結果が予測されるのか。この様なことを患者と医師がじっくり、一緒に考えていくことが大切になってくると思う。

 

【Kさん】

 近代個人主義的に言わせれば「自立」とは他人の世話にならずに単独で生きていくことと想定されていた。しかし、自立生活運動によって、他人の手を借りながら自分のニーズを満たした生活を送ることが新たな「自立」観となった。障害の有無によらず、誰しもが他者に支えられ、他者を支え合う相互依存によって、自分のニーズを満たしている。筆者はそうしたあたりまえの根底を直視し、高齢の要介護者や障害者を含めた我々全員が権利として他人の手を借り、最期まで生きられることを「自立」と捉えている。大切なのは、他者による支援を受けないことではなく、自分のニーズを自分で決めることそのものなのだ。そうすれば、在宅支援を受ける要介護の高齢者であっても、住み慣れた家で生活をするために自ら他者の助けを求める決定をした時点で「自立」していることになる。しかし自己決定が及ぶ範囲は限りなく広がるわけではないかもしれない。自分の人生におけるニーズを満たす権利は当然誰しもにあるが、その自己決定が他者に影響を及ぼす場合は他者にも存在する自己決定との折り合いが必要となるだろう。そこで、臓器移植の意思決定を例に挙げたい。脳死状態になった時自分はどうしたいかを前もって示す意思表示カードは、時々家族を苦しめることがある。脳死後に本人が意思を告げることができないため、意思表示カードがあっても家族が最終的に決めることになる。その場合、本人の自己決定は届かない可能性がある。これは認知症患者にもあてはまることで、人が自覚を失ったとき、自己決定の持つ力が弱まることは課題の1つなのかもしれない。人は移り変わる感情を持っているため、それに伴う自己決定は本来更新され得るものだと思う。よって、本人が自己決定能力を失った時、以前の決定をいつまで本人の決定だとみなせるのかは難しいこともある。そうすると自己決定能力を失った人の「自立」が揺らぐ可能性もあるだろう。

 

【Oさん】

 「自立」とは何かを問われると、多くの人が他人に迷惑をかけずに1人で生きることをイメージする。しかし新たな概念は、自分のニーズは自分で決めるということだ。私たちは皆誰かに助けられ、誰かを助けることで豊かな人生を送っている。なので、高齢者や障害者などにとってのニーズが介護というだけであり、彼らが自立していないわけではない。

 支援費制度は、必要なサービスを利用者が自己決定するという考えに基づき、障害者の自立支援を目的としている。しかし、ここでポイントとなるのが、全ての利用者が自己決定を確実にできるのかという点だ。例として、ある老夫婦をあげる。女性は重度の認知症で足も悪く、車椅子で生活している。病院側は、男性も高齢であることから、近くの介護施設に入ることを勧めた。しかし男性は、施設よりも自宅で生活する方が良いと主張した。ここで問題となるのは、当事者である女性のニーズがわからないことである。この男性の考えには、2人で暮らしたいという男性の思いも表れているように感じる。女性は、本当は夫に負担をかけさせたくないから入居したいと思っているかもしれないが、うまく伝わらないのである。「自立」した人生を送りたくても送れないもどかしさがあるように感じられる。

 どんな人にも意志があり、ニーズがある。そしてそれを自分で決めて、自立した人生を送る。全ての人が自立した人生を送るためには、周りの人が本人のニーズを大切にする姿勢が大切だ。 そのためには、日頃から自分はどう生きたいのかを伝えていく必要があると思う。そうすることで、仮に本人が上手く表現できないとしても、それを軸に周りが動くことができるようになるだろう。そして、その人のニーズを満たすことで、自立した生活を送ることができるのではないかと考える。

小テスト①


<講評>

 多くの方が認知症患者さんの悩みや苦しみを、想像力豊かに患者さんの立場で考え、認知症患者さんを思いやる記述になっていたことについて、とても嬉しく思いました。しかし、認知症の客観的・一般的な情報だけで記述を進めている方も一部見受けられました。問題文には「どのような悩みや苦しみを経験するか考え」とあります。この問題に答えるには認知症患者さんの立場からの視点が不可欠だと考えます。また、③では“そのような困難や苦しみ”が私たちの社会の状況といかに関連しているか、ということが問われているのであり、認知症の患者数増加やそれを支える予算等、“認知症”や“高齢化社会”の状況について聞かれているわけではないことに注意してください。

 Nさんは、「一人ひとりが認知症と向きあって理解が深まれば、患者の苦しみが軽減されると共に、皆が心地よく生きる社会を築くことにつながるだろう」とまとめています。“皆が”というところがとても良いですね。相手を理解しようと努力することは、認知症に限らず対人関係や子育てなど様々な困難とも関連しますね。Yさんは「認知力の高低に関わらず、誰もが心に孤独を抱えている今だからこそ、多くの人が認知症患者の疎外感に共感できるのではないだろうか。」と現代社会の状況とリンクさせ、共感したり肯定したりすることの重要性を記述していることがとても素晴らしいと思いました。

 認知症になり、人と物、物と物を区別できなくなっていく感覚は経験した人にしかわからない想像を絶する苦しみであると思います。そのことを周りの人たちから理解されなかったり、否定されたりすることによって、苦しみはより深く「孤独」になっていくと考えられます。しかし、認知症患者さんの抱える「孤独」は、実は認知症患者さんだけのものではないのかもしれません。現代の私たちの社会を見渡してみると、若者から高齢者まで多くの「孤独」を抱えた人たちが存在します。認知症の方がする“問題行動”とされてしまうもの(文章中での長崎さんの物や他者にさわる行為)も、認知症により多くのことがわからなくなってしまう中で、一生懸命に相手を知ろうとしているのかもしれません。またはコミュニケーションをとりたいと思っているのかもしれません。すべての行動には、その人なりの意味や、なんらかの理由があるのではないかと考えること、相手に寄り添って相手の気持ちを汲もうとすること、相手を認めること、これは社会の中でも常に必要なことなのではないでしょうか。人はそれぞれ違った個性があり、全く同じ人・同じ考えの人は存在しません。また、同じ人でも人生のその時々で変わっていくものです。相手のありのままを認め肯定するということは、認知症に限らず、社会にとって必要な力であると考えられます。

 そして、認知症患者さん本人も、「まぁ歳をとったから、そういうこともあるよね」とおおらかに捉え、自分自身のことを肯定できるような環境となっていくこと、認知症になっても幸せを失うことなく生きていくことができるような社会になっていくことを願います。

 

<サンプル答案> ※問3のみ

 

<Nさん>

 私たちの社会の状況を考えると、認知症についての正 確な知識の広まりや寄り添う姿勢が十分であるとは言 い難いだろう。近所の人が認知症で徘徊していたとし ても「変な人」と認識し避けるだけという人も多いは ずだ。認知症は本人はもちろん、本人以外の人とも関わ りが深い病だと言える。だからこそ、この病に対する認識 を広め、認知症が原因で起こってしまう問題の予防や解 決のために、患者自身の辛い経験を減らすために社会全 体でこの病と向きあっていく必要があるのではないかと 考える。一人ひとりが認知症と向きあうことで理解が深まれ ば、患者の苦しみが軽減されると共に、皆が心地よく生 きる社会を築くことにつながるだろう。

<Yさん> ※準備中

​ 

Leave to chance

okutsu.info

©Shigeki Okutsu

bottom of page