秋田大学医学部医学科の小論文
2024年:科学否定論への対応
以下の文章を読んで問いに答えなさい。
問1 下線部(1) "理詰めの対応策は明らかに限界がある"とあるが理詰めの対応策とは何か。また、その限界とは何か。文意を踏まえ200字以内で述べなさい。
問2 下線部(2) “科学否定論者には確かに危ういところがあるとはいえ。その萌芽はすでに私たち自身のうちにあるのだ"とあるがなぜか。150字以内で述べなさい。
問3 下線部(3) “結局私たちは、科学否定論者に向かってどんなことを言えばいいのだろう"とあるが,あなたなら科学否定論者に向かってどう言うか。文意を踏まえ250字以内で述べなさい。
「科学を否定する人々に私たちは何が言えるのか」
先日,岩波書店から拙訳『哲学がわかる懐疑論―パラドクスから生き方へ』(ダンカン・プリチャード著)が刊行された。本書は,懐疑を題材とする哲学の入門書になっている。「懐疑」と聞くとやや取っつきにくい印象を持たれるかもしれないが,実際は身近で奥深い。というのも懐疑のあり方を考えることは「どう生きるか」を考え直すことに繋がっているからだ。
例えば,自分自身に対する懐疑を考えてみよう。世の中には,自己主張が強く自分を疑うことを知らない人もいれば,逆に不安や迷いを感じて自己を卑下する人もいる。前者は,堂々としていて確かに自信があるだろう。だが,独りよがりだったり傲慢な態度に陥るきらいがある。他方で後者は,控えめで謙虚な姿勢を保つ反面,自信に欠け他人に流されることが多い。理想的で望ましい生き方はどちらかと問われたら,おそらくどちらでもない。とすると,よりよく生きる上で鍵となるのは,自分を疑わないわけではなく,かといって疑いすぎない心掛けではないだろうか。こうして本書では「自己に対する健全な懐疑」とは何かを明らかにし,自信と謙虚さを絶妙なバランスで維持する生き方を模索している。興味がある方はぜひご覧あれ。
CMはそこそこにして,ここからはひとつ,ある特殊な懐疑について考えてみたい。懐疑は懐疑でも,なかんずく科学の否定や陰謀論と蜜月関係にあるような懐疑について,である。科学を懐疑し否定する人々に対して,私たちは何が言えるのだろうか。より厳密に言えばこうである。十分に確立された科学的な根拠や合意を疑い,ついには否定するに至った科学否定論者がいるとして,彼らに対して私たちはどんなことが言えるだろうか。翻訳を進める中で,この疑問がどうしても私の頭から離れなかった。
まずは,科学否定論の輪郭をはっきりとさせよう。今に始まった話ではないが,SNSと一部のメディアでは,科学的な根拠や合意を否定する言説が平然と跋扈している。やれワクチン接種は人体に有害であるだの,標準治療は効果がないので拒否すべきだの,気候変動は人間の活動のせいではないだの,種類は多岐にわたる。中にはビジネスと化し,社会に悪影響を及ぼすものさえある。いわゆる陰謀論は,そうした言説の説得力を高めるのに一役買うだろう。「ワクチンは人口削減目的で開発された」や「温暖化のデータは利権を貪る科学者たちによる捏造だ」などがそれである。
もちろん正しい情報とそうでない情報を区別できる注意深さと専門知があれば,有象無象の怪しげな言説に惑わされる心配はあまりない。しかし,不安や警戒心から生まれた小さな疑念でも,やがて大きな不信や否定に至る場合がある。科学的に十分確からしくすでに合意も形成されている事柄をいったん疑い始めると,巷で飛び交う陰謀論も相まって,まったく信用できなくなるかもしれない。そうしたとき,周りの人々や社会は一体どうしたらいいのか。
真っ先に思いつくのは,理屈で反論することだろう。例えば,科学哲学者カール・ポパーのやや埃をかぶった概念を持ち出せば,信頼できる仮説の特徴は一般に「反証可能性」にある。ざっくりと言えばこれは,当の仮説の間違いを示す証拠や反例を実際に突き付けられたら困るものの,突き付けられるリスク(可能性)は引き受ける,ということだ。反証可能なのに,どれだけ事例を集めても反証されずに生き残った仮説は信頼に値する。逆に言うと,反証不可能,ないしは反証が見つかった仮説は,具体的な証拠が出揃う前から自分は間違いえないと勝手に確信しているだけか,単純に間違っているということだから信頼ならない。
そこで,反証可能性を使って科学否定論者にこう問うてみればいいだろう。万が一どういった証拠があったら,自分の間違いを認めるのか,と。「そんな証拠はない」と応答するなら驚くべきことだ。彼らは,間違う可能性が最初からありえない反証不可能な仮説を信じていることになるのだから。そんな独り合点の仮説をどうやって信じろというのか。反対に「万が一こういう証拠があれば,間違いを認めよう」と応答してくる場合もあるかもしれない。それなら話は単純,その証拠を探し出して彼らに突き付けるまでだ。
しかし,こうした(1)理詰めの対応策は明らかに限界がある。まず,こちら側の議論をまともに取り合ってくれる科学否定論者などほとんどいない。どれだけ理性的な反論や反例をぶつけても,のらりくらりとかわされるか,「あなたは何もわかってないんだね」で一蹴されるのが関の山だろう。しかも,理論武装があだになる場合すらある。説得しようと言葉を尽くせば尽くすほど,「ここまで必死ということはやはり裏に何かあるのでは」とより一層疑念が深まりかねない。科学否定論にどっぷりつかっている者からすれば,科学者や大手メディアの権威は失墜しきっているので,その権威に追従する理屈を並べたところで,ただの詭弁か下手なごまかしにしか聞こえないのだ。
科学否定論者には,理屈がなかなか通用しない。それを踏まえた上で,ここで少し,類似した事態を別の角度から眺めてみよう。よく考えてみると理屈や証拠の棚上げは,科学否定論者に限らず,実は誰にもあることではないだろうか。例として,わが子に殺人の嫌疑がかけられ,それを示す証拠もあるケースを考えよう。このとき,「あの子の声を聞くまでは信じない」という態度をとるのは道理に合わない行動だろうか。ある意味ではそうだ。わが子への信頼感や愛情ゆえに一時的に証拠を見て見ぬふりしているのだから。しかし十分に理解できる行動ではある。私たちは物事をいつでも中立的で公平無私に判断できるわけではない。この意味では,客観的な証拠よりも身近な家族や友人を信頼して,判断をいったん保留したり先延ばしにするのは,自然な振る舞いと言える。
同じことはワクチンや標準治療,気候変動にも当てはまるのではないか。データをいくら並べられても,それを捏造だと言い張る人物を信じたい気持ちが強ければ,科学的な根拠や合意をおいそれと受け入れることはできないだろう。少なくとも,信頼が置ける人物を優先して,赤の他人にすぎない科学者の言うことに疑念を持つ態度それ自体は,愚かだと切り捨てられるものではない。
もちろん,これはまかり間違うと道理が通らない事態へと発展する。実際,科学を否定する言説にまで至ると,懐疑や判断の保留どころではなくなる。「各データの意味を自分で理解するまでは,気候変動の原因が人間の活動だとは信じない」と「気候変動の原因が人間の活動だとはまったく思わない」の間に,無視できない隔たりがあるのも事実だ。にもかかわらず,ふとしたきっかけで懐疑や判断の保留が不信へと変貌すると,この隔たりは易々と飛び越えられてしまうだろう。つまり,(2)科学否定論者には確かに危ういところがあるとはいえ,その萌芽はすでに私たち自身のうちにあるのだ。
では,何が懐疑を不信に変貌させるのか。個人の心理的背景による影響はおそらく大きいのだろう。非専門家への(信頼を超えた)過度な依存,深いトラウマによる思い込み,特定のコミュニティへの帰属意識は,科学否定論や陰謀論の芽を育てるのにうってつけの土壌である。SNS上の閉鎖的な交流は,風通しをますます悪くするだろう。結局,科学否定論にはまり込む一因は,各人の心のひずみにあると考えられなくはない。
裏返して言えば,この見立てはひょっとすると,科学否定論者に対するもう一つの対応策を示唆している―私たちがなすべきは,反証でも論破でもなく,対話を通じた寄り添いではないだろうか。彼らの肩を掴んでいい加減目を覚ませと叫ぶのではなく,膝を突き合わせて彼らの話に耳を傾けること。否定論者一人ひとりの奥底でくすぶっている思いや悩みをくみ取ること。一定の理解と共感を示しながらやさしく諭すこと。こうした姿勢で接すれば,依存心やトラウマ,偏った帰属意識を少しでも緩和し,視野狭窄に陥ることを防げるかもしれない。心の穴を埋めるような言葉は,不合理な認識に凝り固まった者にとり最良の解毒剤となりうる。
しかしながら,この対応策も楽観論の域を出ていないと私は思う。まず,一定の理解と共感は,陰謀論の正当性を示す印象操作に利用されやすい。ちょっとした歩み寄りの発言のつもりが,「あの人もようやくワクチンを身体に入れてはいけないものだと認めてくれた」と受け取られることだってある。生半可な理解と共感は逆効果になりかねない。
また,ワクチンにはマイクロチップが入っているとか,健康食品で改善する免疫力を標準治療は台無しにするといった言い分に耳を傾け一人ひとりと対話することは,反証よりもよっぽど手間と時間がかかる。寄り添いや対話と言うと聞こえはいいが,誰がそんな面倒事を引き受けるというのか。
そのように考えていくと,科学否定論者に何か言おうとすること自体,そもそも間違っていた気がしてくる。何を信じようと,結局は個人の自由,ないしは自己責任ではないか。しかしその一方で,科学否定論を放置しておくと,ときに自己責任では片づけられない弊害が社会に生じる。試しに,気候変動データの捏造を謳う言説が蔓延した結果,温暖化対策が一向に進まなくなった未来を想像してみるとよい。手遅れになる前に,私たちは何か手を打たなくてはいけない。
では,(3)結局私たちは,科学否定論者に向かってどんなことを言えばいいのだろう。こうして表題の問いはいつも振り出しに戻り,今も私の頭をぐるぐると駆け巡っている。
(注釈)跋扈:ほしいままに振る舞うこと。また,のさばり,はびこること。
〈出典:横路佳幸著,図書2023年7月号『科学を否定する人々に私たちは何が言えるのか』より,一部改変〉
<サンプル答案>※AIが生成した答案です。クリティカルに読んでください。
問1理詰めの対応策とは、反証可能性を使い、化学否定論者を説得するための理性的な反論や反例を突きつけることである。この限界として、科学否定論者には理屈がなかなか通用しないことがあげられる。まず、理屈で反論をしてもまともに取り合ってくれる科学否定論者はほとんどいない。さらに、科学者や大手メディアの権威は失墜しているため、説明するほど「何か裏があるのでは」と一層疑念が深まるからだ。
問2私たちは物事をいつでも中立的で公平無私に判断できるわけではない。客観的な証拠よりも身近な家族や友人を信頼し、判断を留保したり先延ばしするのは自然な振る舞いと言える。科学否定論者もまた科学的な根拠や合意より、それを捏造だと言う人物を信じたいと言う点において、本質的な考えは同じだと言える。
問3科学否定論者に対して、理性的に話すのではなく、相手の身近な人を例に出して、論題となっている事柄を当てはめ感情に訴えることを言う。ただ、一方的に意見を言うのではなく、相手の主張も聞きながら話す。また、反論だけでは心を開いてもらえないため、楽しい雰囲気を持つ場を作り、少しずつ会計を築く。
<コメント>※AIが生成したコメントです。クリティカルに読んでください。
問1
要約の不完全さ:「反証可能性」の概念説明が不足しています。反証可能性が何を意味するのか、なぜそれが重要なのかを明示する必要があります。
詳細な説明不足:「科学否定論者には理屈がなかなか通用しない」理由についての具体的な説明が不足しています。例えば、具体的な反論や反例を挙げて、なぜそれが通用しないのかを説明すると良いでしょう。
具体例の不足:科学者やメディアの権威が失墜している具体的な例や、その背景についての説明が欠けています。これがなぜ疑念を深めるのかを具体的に示すと、読者にとって理解しやすくなります。
問2
結論の明確さ:「本質的な考えは同じだと言える」という結論部分が曖昧です。具体的にどの点が同じで、どのように関連しているのかを明示する必要があります。
具体例の不足:身近な家族や友人を信じる自然な振る舞いについて具体例が不足しており、科学否定論者との比較が曖昧です。例えば、どのような状況で家族や友人を信じるのか具体的な事例を挙げると良いでしょう。
重要なポイントの欠如:証拠や理屈を棚上げする行動がどのように科学否定論者の態度に関連するのかが説明されていません。この点を具体的に説明することで、文章全体の意図がより明確になります。
問3
具体的な手法の不足:「相手の身近な人を例に出して、論題となっている事柄を当てはめ感情に訴える」とありますが、具体的な例や手法が不足しています。どのように感情に訴えるか、具体的な事例を示すと良いでしょう。
理論的裏付けの欠如:感情に訴える理由やその効果についての説明が不足しています。なぜ感情に訴えることが効果的なのか、具体的な理由を説明する必要があります。
場の構築についての具体性の欠如:「楽しい雰囲気を持つ場を作り、少しずつ会計を築く」とありますが、具体的にどのような場を指しているのか、どうやってその場を作るのかが説明されていません。具体的な方法や事例を示すと、より説得力のある文章になります。
2020年:ゲノム編集と生命倫理
問1 筆者は、生命倫理はどういうものであるべきだと考えているのか。100字以内で述べなさい。
間2 エンハンスメントとしてのゲノム編集技術の限界について,250字以内で述べなさい。
問3 下線部「神話」を捨てるとはどういうことか。具体例をあげ,250字以内で述べなさい。
(秋田大学医学部医学科推薦入試Ⅱ2020年)
2018年11月28日は,パンドラの箱が開いた日として語り継がれるだろう。その箱とはもちろん,中国・南方科技大学で実施されたヒト胚へのゲノム編集であり,その胚が新生児として生まれてきた,という事実である。賀建奎(ハー・ジエンクイ)がこじ開けたバンドラの箱から出てきたものは何だったのか。
この数年,新聞やニュースなどで「神の領域」という言葉にふれる機会が多いように思う。「ゲノム編集や再生医療技術は,治療だけでなく,ヒトの命の始まりや遺伝的シナリオに手を加える可能性を広く持つ。地球に誕生した命のつながりを恣意的に変えることが私たちに許されるのか。人類が神の領域に踏み込む技術を持った今,確かな哲学と倫理の創出が求められている」。
(中略)
ただ,生命科学領域の技術を「神の領域」として「敬って遠ざけ」なければならない根拠とはなんなのだろうか。一般に,生命科学の技術を対象に,その倫理を考える領域として「生命倫理」がある。この分野は20世紀に入り,患者,被験者を保護するルールを考えるための基盤として出来上がってきたものである。それまで,ヒトを対象とする研究といえば医療のためのものがもっぱらであり,医療倫理がその役割を担ってきたが,医師以外の研究者が急速に流入し,治療的なだけではない研究が増大したために,それまでの哲学的な知の集積や宗教的な観念が糾合・整理整頓されたのである。だが,そのルールの前提となっている「いのち」に対する哲学の知が,現在の生命科学を十分に取り込み,アップデートできていなかったとしたら,「かくあるべし」という苔むした輌(くびき)に「自然」という像を縛り付けているだけではないだろうか。
今回の一連の報道からは,やはり「遺伝子」や「ゲノム」という単語が,依然として強い神話性をまとっていることが感じられた。つまり,遺伝子やゲノムは能力を司り,それは本来変えることができない/変えてはいけない「ギフト」であることを前提とし,その上で,富裕層が胚へのゲノム編集に対価を支払い,望ましい形質を選択して社会での格差を生物学的に固定させることができるというエンハンスメントの可能性が論じられていたからだ。
人工知能などの普及によって,遺伝子の解析はこれからもどんどん進んでいくだろう。しかし,顔貌の形成や知能,運動能力といったものに関係する遺伝子は複雑なネットワークを形成しており,これに外的な要因が密接に結びつく。すくなくとも,現時点のゲノム編集技術で,というよりは我々が持つ遺伝子に関する知見で,そうしたものを意のままに操れると思うのは,自分たちの能力を過信しすぎていると言える。
素晴らしいとされる能力や美醜が,社会構造の変化やさまざまなコンセンサスによって大きく変ゎっていくことは,言うまでもないだろう。そうした可変的な価値判断に立っているのを,遺伝子で解決できる,という考えはあまりにナンセンスだ。そうした「遺伝子の神話化」こそが,功にはやる研究者を生み出し,科学的根拠に欠ける投機的な行為を頻発させているとはいえないだろうか。
その一方,今後技術的な問題点が解決され,胚に対するゲノム編集の適用の安全性が担保されるようになったときにはどうであろうか。かつてヒトゲノム計画が全世界的なプロジエクトとして推進されていた1990年代,さらなる技術の進歩と計画の完遂によって,形質をコントロールされ,エンハンスメントが施されたデザイナーベイビーの出現が危惧され,盛んに議論がなされた。例えば, 1997年欧州評議会では「人権および生物医学に関する条約」が調印されているが,第13条にはヒトゲノヘの改変について,予防・診断・治療目的に限定され,かつ子孫のゲノムに引き継がれない場合にのみ実施することができると定められている。
しかし,エンハンスメントとしてではなく,ゲノム編集が遺伝性疾患を持って生まれてくる子供に対する予防的措置として科学的に十分妥当性が認められるとき,胚に対するゲノム編集の適用に反対し続けることは倫理的な振る舞いなのだろうか。現時点ではその問いに対する明瞭な答えを出すことは難しい。
「神の領域」論的立場で言えば,フランシス・フクヤマなどは,人間に対するこれ以上のテクノロジーの利用は行うべきではない,と主張している。彼らは,科学技術が自然を破壊すべきではない,と説くが,彼らが言う「自然」とは何なのだろうか。そこでは恐らく科学や技術の力を借りずに「健康で,健常で,知的にも正常」という状態を継続できるということが,暗黙裡に前提とされていまいか。しかし,そこには人工呼吸器によって命を永らえているALS患者,脳深部刺激療法によってQOLの向上を願うパーキンソン病患者,ES細胞による心筋シートに望みを託す心筋梗塞患者は含まれてこない。
(中略)
ヒトは生存するために,その目的を達するためにさまざまな技術を開発し,応用してきた。すでにわたしたちは,神が生命を授けてくれる社会を生きてはいない。進化論を選択し,呪術医を否定し社会を構築してきた。そうした観点で言えば,もはやわたしたちは,ゲノムに分け入ることから逃げることはできない。それは「ホモ・デウス」などではなく,「ホモ・サピエンス」の営みの範疇内でしかない。
では今何を恐れるべきなのだろうか。過去の因習が作った「あるべき姿」を「神話」に委ね,目を瞑(つぶ)ることこそが恐れるべきではないのだろうか。「神話」を捨てる。そのときにこそ,パンドラの箱に,希望を創り出すことができるのではないだろうか。
<出典:八代 嘉美 著 ゲノム編集という名の「パンドラの箱」より抜粋,一部改変>
<解答例>
問1 生命倫理は、生命科学領域の技術を「神の領域」として「敬って遠ざけ」てはならない。むしろ、それらを十分に取り組み、「いのち」に対する哲学の知を、アップデートしなければならない。(87字)
問2 ゲノム編集技術によって「素晴らしい能力とされる能力や美醜」を得られるというエンハンスメントの可能性が論じられてきた。しかし、これらの「可変的な価値」を遺伝子で解決できるというのは誤りであり、ゲノム編集技術の限界だ。また、ヒトゲノムの改変には限界を設けるべきで、欧州評議会のように「予防・診断・治療目的」に限定し、かつ「子孫のゲノムに引き継がれない場合」にのむ実施するなど、ゲノム編集技術の限界を定めていくことも必要である。(211字)
問3 「神話」を捨てるとは、過去の因習にとらわれずに、真に恐れるべきものは何かを自他に問い続けることである。あえて医学・医療を離れて具体例をあげたい。それは少子化問題だ。少子化を必要以上にネガティブに考える傾向が強い。その背後にあるのが、子どもがいることを前提とした過去の家族観だ。少子化は深刻だが容易には解決しない。少子化対策よりも急ぐべきは、労働力不足や地域崩壊などの課題への対処である。そのための智恵を出すことも「神話」を捨てることといえよう。(222字)
<解説>
秋田大学医学部医学科の2020年推薦入試の出題です。課題文を読んで理解したことを、設問に即して解答する読解記述型の出題です。各問の字数が短いので、問いに対する答えを明示し、簡潔に説明することが解答の基本です。テーマになったゲノム編集技術やエンハンスメントは医療系論文として数多く出出されています。ただ、今回の出題は、従来までの議論に一歩踏み込んだ問題提起を盛り込んでいます。特に最後の段落にある「神話」を捨てることは、一般社会の常識に改変を迫る性格のため、感情的な反発も少なくないと思われます。将来の医療従事者として自問自答を深めるようにしてください。